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(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家

<伝統主義の復活&多様化の時代>
戦後のモダニズムの第一波(1955~65頃)の後、価値の多様性の時代に移り伝統主義が復活した。しかしモダニズムを通過した音楽界の「伝統主義」の概念は拡大されている。それ以前に多くのフィンランド人作曲家が使用した十二音技法もほとんどの作曲家が捨て(コッコネン、ラウタヴァーラ、サッリネン)た一方で1950年代後半にデビューしたメリライネンやヘイニネンのようにモダニズムの傾向が存在し続けた作曲家もいた。フィンランド音楽の本格的な隆興の始まりは1975年で、この年にサッリネンのオペラ「騎手」とコッコネンのオペラ「最後の誘惑」が2カ月の間に初演された。どちらのオペラも稀にみる成功を収めフィンランドはオペラブームとなり、他の新しいフィンランド音楽に対する一般聴衆の偏見も急激に消え去った。1970年代に入るとコッコネンやサッリネンが国際的によく知られたフィンランド人作曲家となり、ラウタヴァーラはそれほど大きくなかったが国際的名声を獲得していた。

<モダニズムの復活>
1980年代初めには1960年代初頭と同様の現象が発生した。この時期に若手作曲家の間でモダニズムが復活した。中心となったのが1977年に創立された「耳を開け!」というグループで、エーロ・ハメーンニエミ(→NML)、カイヤ・サーリアホ、マグヌス・リンドベルイ、ヨウニ・カイパイネン(→NML)、エサ=ペッカ・サロネン(→NML)、オッリ・コルテカンガス(→NML)等が集った。「耳を開け!」の特徴はメンバーの大半がヘイニネンの教えを受けたことで、ヘイニネンの教育者としての力と妥協なきモダニズムが実を結んだと言え、グループの作曲家はヘイニネンの流派と呼ばれた。「耳を開け!」の中で1980年代に最も大きな国際的成功を収めたのがカイヤ・サーリアホ(1952~)とマグヌス・リンドベルイ(1958~)である。
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<アウリス・サッリネン>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_1518080.jpgA.サッリネン(1935~)はラウタヴァーラと並んで現在フィンランド人作曲家のなかで最も世界的に名の通った一人である。シベリウス音楽院でアーッレ・メリカントやコッコネン学び(1955〜60)作曲活動を開始した1950年代後半はフィンランドはモダニズムの時代で「優れた芸術とは力強く単純なものだ」と語るサッリネンも他の作曲家同様に十二音音楽時代を通過した。1962年作曲の「壁の音楽」がこの時期の代表作である。1960年代後半以降、音楽語法は直接的で親しみやすくなった。サッリネンは大変単純な手法で作曲をしているにも関わらず、強烈な情感とニュアンスを創り出すことができ、作品はしばしば単主題で技法にはシベリウスとの共通点が数多く見出される。弦楽四重奏曲第3番「ペルトニエミ・ヒントリーキの葬送行進曲の諸相」(1969)が1960年代後半の代表作でポホヤンマーのペリマンニ音楽に基づく。

サッリネンは根本的には新古典主義者である。音楽は楽々と流れていくように進み生命の深く暗い底流の中から生まれてくる音楽のように感じられる。しかしその率直なスタイルには、例えば複数の和音が合体してトーン・クラスターに変化するといった新古典主義的な手法より新しい要素が入っていることも珍しくない。初期作品はオーケストラ曲や室内楽が創作の中心であったが、1975年のサヴォンリンナ・オペラフェスティバルで初演された「騎手」はサッリネンの名を国際的名声にのし上げ、以後、創作の中心はオペラとなった。「騎手」の音調言語は伝統に縛れているにも拘らず大変に「サッリネン的」なものである。2作目のオペラは「赤い線」(1976〜1978)でこの作品も大成功を収め、フィンランド国立オペラは多くの海外巡演でも上演した。1984年にオペラ「王様はフランスに行く」を作曲。カレワラに基づくオペラ「クッレルヴォ」は1992年にロスアンジェルスで初演されオペラ作曲家としての名声を不動のものにした。

サッリネンの様式、表現が最も多彩な広がりを見せているのはオペラであるが、オーケストラ曲も、多種多様な要素を採り入れている点ではオペラに劣らない。交響曲では第1番、第2番以上に交響的なのは第3番(1975)と第4番(1979)でサッリネンの交響曲には前進的な進展は含まれておらず、作品の素材は出来上がったものとして最初から紹介され、その後はこれを繰り返すか様々な仕方で変奏する。交響曲第5番「ワシントン・モザイクス」は交響曲中の傑作でいくつかの楽想はモザイクの断片のように同じ形のまま他の楽章に何回か登場し、後期ロマン派的な音楽と動きの少ない、いわば固まった表面を持つ響きがある。標題音楽的な第6番「ニュージーランドの日記より」(1990)はニュージーランドの風景と音を描き、第7番「ガンダルフの夢」(1995~1996)はトールキンのファンタジーから副題を得ている。

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<パーヴォ・ヘイニネン>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_59236.jpgP.ヘイニネン(1938~)はシベリウス音楽院ではアーッレ・メリカントやコッコネンに学び、海外ではケルン(1960〜1961)、ニューヨーク(1961〜1962)に留学した。また1971年にはポーランドへの短期留学でルトスワフスキに学んでいる。ヘイニネンは1950年代にデビューした他の作曲家たちと異なり新古典主義の時期を通過せず、ほぼ十二音音楽からスタートし、他の多くの作曲家が十二音技法を捨て、多元主義、新調性主義に向かったときも十二音技法の基本を捨てなかった。

ヘイニネンがフィンランド音楽界の「恐るべき子供」と呼ばれたのは1959年に交響曲第1番が初演された時で、オーケストラは曲を覚えることが出来ず中間楽章の演奏は除外された。この時の衝撃はヘイニネンの作曲スタイルに影響を与え1960年代、ヘイニネンは意識的に単純な音楽語法を採用した(「様式化された作品」)が、一方で自分の個性を妥協することなく反映した作品(「モダニズム的な作品」)も書き続けた。「夏の音楽」(1967)はモダニズム的な作品であり、交響曲第2番(1962)やピアノ協奏曲第2番(1966)は様式化された作品である。

ヘイニネンの作品は交響曲、協奏曲から室内楽、独奏曲、声楽曲に及ぶ。最も大規模なものはオペラで日本の能に基づくオペラ「綾鼓」(1981〜1983)とサヴォンリンナ・オペラフェスティヴァルのオペラ作曲コンクールに優勝した「ナイフ」(1988)がある。交響的作品の代表作、交響曲第3番(1969/1977)も交響曲第1番同様に初演では半分しか演奏されず作品は完全に新しく書き直された上で10年後に演奏された。室内楽の重要作品はピアノ・ソナタ「よく響く白熱の詩」でフィンランドピアノ音楽史上の重要作品とされる。

ヘイニネンで重要なのは教育者としての業績で、シベリウス音楽院で1966年から講師として、1993年からは作曲家の教授として活躍し、1980年代への変わり目にはヘイニネンのモダンな作曲スタイルは若手作曲家の規範となった。
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<ペール・ヘンリク・ノルドグレン>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_2241989.jpgP.H.ノルドグレン(1944〜2008)の経歴は現代フィンランド人作曲家としては異色で作曲を学んだのはシベリウス音楽院ではなく(ピアノの技量が足らず入学出来なかった)コッコネンの個人指導(1965〜69)でその後に東京芸術大学で作曲と日本の伝統音楽を学んだ(1970〜73)。ノルドグレンに大きな影響を与えたのはショスタコーヴィチで、その音楽から直接的な影響を受けないように苦心している。全般的にはショスタコーヴィチの影響は様式の借用ではなく、同じ世界観、音楽全体の基底にある悲劇的な気分といった精神面での共感を示している。ノルドグレン作品を既存のカテゴリーに分類するのは難しく、リゲティのフィールド・テクニック、フィンランド民謡、西洋音楽の調性と無調性の伝統を融合させ、独自の表現形式を作り上げており特定の手法や楽派にとらわれることはない。ノルドグレンの語彙は理論に従って使われるのではなく、作品個々の要求によるもので、十二音技法を用いている曲でもかなり自由に使われておりシェーンベルク楽派に与するものではない。

1960年代後半にデビューした頃の作品は複雑なテクスチュアを持ち極めて近代的なアプローチで書かれているが、日本で学んだ後、簡素な表現方法を工夫するようになった。1980年代以降はミニマリズムのようなテクスチュアも使うようになった。ノルドグレン作品には曲中のスタイルのコントラストからくる魅力的な不合理性が見られる。「クラリネット、3つの民族楽器のための協奏曲」(1970)ではフィンランドの民族音楽からの引用と、民族楽器をモダンな十二音音楽に並べ合わせている。また4つの日本の伝統楽器のための「秋の協奏曲」(1974)では日本の伝統音楽要素とヨーロッパの伝統音楽要素が並び合っている。

1973年、日本留学からの帰国後、ノルドグレンは引っ越したカウスティネンで古くからの学友ユハ・カンガス(→NML)と再会した。カンガスはその前年に後に「オストロボスニア室内管弦楽団(→NML)」と呼ばれるオーケストラを組織しており、ノルドグレン、カンガス、オストロボスニア室内管弦楽団の協力関係が始まった。協力関係は「ペリマンニの肖像」(YouTube)(1974〜76)から始まり、カンガスはノルドグレン演奏にかけて右に出るもののいない指揮者となった。ノルドグレン作品の多くは弦楽オーケストラのために書かれているがそれらは1973年以降の作品である。1980年代の代表作はカンタータ「天空の光(Taivaanvalot)」で魅力的な手法で過去(古代フィンランドの民族楽器と詩曲)と現在(モダン楽器やモダンな音楽語法)が結びつけている。

ノルドグレンの作曲分野は交響曲、協奏曲から室内楽まで幅広いが交響曲は第1番(1974)から第2番(1989)の間が15年空き、以後、積極的に取り組み始めた。交響曲は慣習的な形式には従っておらず自由な形式で書かれ物語のように組み立てられている。協奏曲も20曲以上作曲したが大半が弦楽オーケストラのためのもので特定の演奏家を想定して作曲されている。協奏曲はしばしばソリストを主役とした抽象劇に例えられ、これらの作品には技術的な手腕だけでなく、精神的なヴィルトゥオーゾ、人生経験、作品が人生の根底についてどのように語っているかを伝える能力が要求される。

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<カレヴィ・アホ>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_0454589.jpg現代フィンランドを代表する交響曲作曲家カレヴィ・アホ(1949〜) は早くも1970年代前半、シベリウス音楽院でラウタヴァーラに学んでいる時期にフィンランドの同世代を代表する作曲家となった。デビュー作の交響曲第1番(1969)、弦楽四重奏第2番(1970)は象徴的で1970年代は交響曲と室内楽曲が作曲の中心となった。1980年代以降、他のジャンルでも書いているが主軸は現在も交響曲である。

アホの初期作品は新古典主義とみなされるが、その概念はやや広く、20世紀前半の偉大な作曲家の模倣というよりその続編として解釈する必要がある。作品にはショスタコーヴィチやバルトーク的なトーンが感じられるが、あまり類似を重視すべきではない。1970年代後半から次第にモダニズム的な手法を取り入れ、万華鏡的な変化に富む大作、交響曲第5番(1975〜76)では既に初期作品からは遠くに離れた地点まで進んでいた。1970年代の室内楽作品の代表は弦楽四重奏曲第3番、オーボエ五重奏曲、ファゴット五重奏曲でこれらの作品は70年代の10年間の変化も表している。

1980年代に入るとアホの狙いは作品ごとに異なるようになり、チェロ協奏曲(1984)やペルガモン(1990)は刺激的なモダニズムを目指し、オペラ「虫の生活」(1985〜87)と交響曲第9番(1993〜94)では複数の様式を意図的に取り入れた。アホの音楽は多様なスタイルと様々な表現の実験を通じて進歩したが変わらない特徴もある。例えば、気高さと滑稽さ、悲劇と喜劇、といった互いに異なる、時には正反対の感情や様式を組み合わせることを好み、皮肉と様式化された表現も標準的な構成要素である。アホ作品には様式やジャンルに関係なく、途轍もなくパワフルな表現に特色があるが、交響曲の一部は協奏曲的で独奏部分も含んでおり奏者には高い技量が要求される。交響曲第3番(1971〜73)はヴァイオリン、記念碑的な第8番(1993)はオルガンが独奏楽器である。

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<カイヤ・サーリアホ>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_0453815.jpg1980年代のフィンランドの音楽がモダニズムの時代になったのは、主に「耳を開け!」協会の作曲家たちの力であった。それによって前の世代のモダニストたちも以前にも増して注目されることになった。協会の作曲家たちの中心コンセプトの一つはフィンランドのモダニストと改革者の伝統に沿ってヨーロッパに向けて窓を開くことだった。K.サーリアホ(1952~)の場合は、それは誰よりも具体的な形をとって実現した。サーリアホの作品に視覚的な要素が登場するのは音楽の道を選ぶ前に芸術とデザインの学校で美術を専攻していたから不思議ではない。それからシベリウス音楽院で1976年から81年にかけてヘイニネンに作曲を学んだ。早くも1980年にはダルムシュタットの夏季講座に参加し、その後、1981年から82年にかけてフライブルク大学でブライアン・ファーニホウとクラウス・フーバーに師事した。サーリアホはエレクトロニクスやコンピュータの可能性に関心を持ち1982年にはIRCAMで仕事をするためにパリに移住した。

1970年代後半は繊細で抒情的な、旋律美に富んだ歌曲を作曲したが、後に作品の焦点はメロディから豊かな色彩感と和声に移り、その2つが相互に関連し合ってお互いを補うものとなった。1980年代初め以降、音楽はディテールに富んだサウンド面を特徴とするようになり、音楽はしばしば楽音とノイズの間を浮遊し、繊細で抒情的な気分が強烈に作りだされ、ゆったりした有機的な成長と進化の中で変化が進行した。この時期の作品には和声構造も対位法もリズムもない。「眩惑(Verblendungen)」(1982〜84)では初めて「あらかじめ用意したテープ」とライヴ楽器を使用したが、演奏家とテープの関係が重要で、視覚的なものから着想を得ており、1980年代前半作品の特徴である「緩やかな変化」の過程を示している。

1980年代後半の作品は初期作品の夢幻的な暖かさは影を潜め、くっきりとした輪郭を持つようになった。「光の弧(Lichtbogen)」(1985〜86)はオーロラから発想を得ており、音楽は静的でありながら常に動きと活気が絶えることがない。この作品で初めて作曲にコンピュータを用いている。ラジオ放送用作品「静物画(Stilleben)」(1987〜88)は最も優れた作品の一つで様々な状況や気分によって引き起こされた連想を含むサウンドによる「詩」であり、主題も内容もあるが正確に断定できるような意味はない。サーリアホの作品は若いフィンランド人作曲家の間で反応を呼びおこしたがその個性的な音楽の後を追うものはいなかった。

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<マグヌス・リンドベルイ>NML
(6)20世紀生まれ(後編)の作曲家_e0213636_0453084.jpgM.リンドベルイ(1958~)は1980年代にフィンランドに起こった前衛音楽運動を誰よりも強烈に体現した作曲家である。その運動の中心となったのは「耳を開け!」だった。これは単なる作曲家集団ではなく、コンサートやセミナー、公開討論会などを主催した。間も無く、この団体の中心メンバーの作曲家たちが世代を代表する最も注目すべき作曲家として頭角を現し始めた。リンドベルイはシベリウス音楽院でラウタヴァーラやヘイニネンに学ぶ一方、ダルムシュタット夏季講座でブライアン・ファーニホウ、シエナでフランコ・ドナトーニに師事した。1981年秋にはパリでヴィンコ・グロボカールとジェラール・グリゼーに学んだ。

リンドベルイは構造主義的で音列技法の応用の可能性を系統立てて研究した。1981年からヴィンコ・グロボカールに学んだことが成長に重要な役割を果たし、自由な音楽的思考を身に付け、急進的な美学に感心が向くようになった。リンドベルイの躍進のきっかけは「アクション-シチュエーション-シグニフィケイション(Action-Situation-Signification)」(1982)と「クラフト(Kraft)」(1985)で「アクション-シチュエーション-シグニフィケイション」はテープに録音した様々な自然音と演奏家が作る音を組み合わせて使っている。「クラフト」は1980年代の代表作で多元性、原始性等が絡み合っており廃棄物置場から拾ってきた様々な物体(初演では自動車のスプリング、金属パイプ、騒々しい音をたてるガラクタを集めて使用した)をリサイクルして打楽器として使用している。また楽器の空間的な配置も工夫され、演奏が進むにつれ奏者の一部はコンサート・ホールの奥まで広がる。

1980年代後半のリンドベルイの音楽はハーモニー、リズム、対位法、メロディ等がポスト・セリー音楽時代へ向けて変化し、より自由で表現主義的になった。「キネティクス(Kinetics...動力学)」(1988)、「マレア(Marea)」、(1990)、「ジョイ(Joy)」(1990)、「オーラ(Aura)」(1994)「アリーナ(Arena)」(1995)等によってその作曲スタイルは完成した。リンドベルイはその後「カンティガス(Cantigas)」(1999)、「チェロ協奏曲」(1999)、「グラン・デュオ(Gran Duo)」(2000)等の作品で世界的な作曲家の一人としての評価を確立した。現在リンドベルイの最新作の初演はフィンランドでは礼拝儀式に近くなっている。

by suomesta | 2016-01-01 00:03 | フィンランド音楽史
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