(2)ロシア支配下のフィンランド(シベリウスの時代)

スウェーデン領からロシア領へ
ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンとの密約に基づいてフィンランドの占領にとりかかった(1808)が気乗りはしていなかった。スウェーデンと戦争を始めると、ロシア軍は退却戦術をとるスウェーデン軍を追って楽にフィンランド、スウェーデン本土との境界に到達した。スヴェアボリ(後の「スオメンリンナ」)の要塞を守っていたスウェーデン兵もこれを簡単に明け渡した。予想より遥かに楽にフィンランドを占領するとアレクサンドル1世は、フィンランドを自己の手中に残そうと考えるにいたった。アレクサンドル1世は1809年3月29日に、ポルヴォーに身分制議会を招集し、自らその席に臨んでフィンランド従来のキリスト教信仰と住民の諸権利を尊重する旨を約束し、フィンランド側諸身分はアレクサンドル1世をフィンランド大公として仰ぐことを誓った。

フィンランド自治大公国
フィンランドがロシア帝国に接合された(1809)大公国となってからの統治機構はフィンランド大公としてのロシア皇帝の代表者であるフィンランド総督が、フィンランド駐在ロシア軍の総司令官を兼ねる形で赴任し、ペテルブルクにはフィンランド事務大臣が置かれて、ロシアの統治機関を介さず大公(ロシア皇帝)に直接、フィンランド関係の事項について進言を行う任務をおびていた。フィンランドの最高行政府はセナーッティと呼ばれ、議長はフィンランド総督がつとめることになっていたが、実際にはまれにしか出席せず、副議長が事実上大公国の首相の役割を果たしていた。大公国の財政はロシア帝国から独立しており、大公国は制度上は自治を保障されていた。しかしフィンランドがロシア帝国に接合された直後はフィンランドに有利な人事がなされたがウィーン体制が成立した頃からアレクサンドル1世は大公国に対して厳しい姿勢をとるようになった。

ヘルシンキが首都となる
フィンランドがロシアに統合された1809年当時、トゥルクはフィンランドで最大かつ裕福な都市だった。また1640年に設立された王立アカデミーの存在により文化の中心ともなっていた。しかしロシアの支配下となるとトゥルクの地位は揺らぎ始めた。トゥルクは前統治国スウェーデンに近過ぎ、スウェーデン気質過ぎるというのがロシアの見解だった。ヘルシンキはトゥルクに比べると小規模な都市だったが、サンクトペテルブルクに近いことや最新式の要塞が都市を守っていることは魅力的であり1812年に首都とする公式決定が下された。フィンランドの民族覚醒e0213636_18404590.jpgフィンランドで民族的覚醒が進んだのはこのような時期で、先鞭を付けたのは1810年代にトゥルク大学の若い教師の間で形成された「トゥルク=ロマン派」だった。指導者はアルヴィドソンで、フィンランド人が民族とての自覚を高めるべきこと。及びそのためにフィンランド語を公用語とすべきことを説いた。アルヴィドソンの名言に「我々はもはやスウェーデン人ではない。だからと言ってロシア人にはなりえない。だからフィンランド人でいこう!」がある。フィンランドがスウェーデン王国の一部である状態ではフィンランド人としての自覚は生じない。ロシア帝国領となり異文化と接触して初めてフィンランドでは民族的自覚が生じた。アルヴィドソンの言動は政府批判の意味もあったため大学を追われたが、大学の移転とともに民族ロマンティシズムの潮流はヘルシンキにもたらされ、彼らは「土曜会」を開くうち、1831年にはフィンランド文学協会を作るにいたった。このグループの中から19世紀中葉のフィンランド民族文化の担い手が育ち、その一人リョンロットはロシア領のヴィエナ・カレリアにまで旅して、農民に伝わる民詩を採取し、叙事詩「カレワラ」と題して発表した。カレワラの初版は1835年でそれを大幅に増補した新カレワラの出版は1849年である。公用語であるスウェーデン語の陰に隠れ民衆の言語であるフィンランド語がこのように見事な文化的遺産を伝えてきたことが海外にも明らかとなり、フィンランド人に民族文化に対する強い自信を植え付けた。

(※)E.リョンロットによって1849年に出版されたカレワラは音楽にも大きな影響を与えた。最初のカレワラを題材とした作品はシャンツのクッレルヴォ序曲(1860年)で、J.シベリウスは1892年クッレルヴォ交響曲によって民族的音調言語を創り上げ、その100年後にはA.サッリネンのオペラ「クッレルヴォ」がロスアンジェルスで初演された。

言語宣言
1863年にアレクサンドル2世は約半世紀振りに、フィンランド大公としてヘルシンキに身分制議会を招集した。議会の開会式に臨んだアレクサンドル2世は、フィンランドを立憲君主国として統治する旨を述べた後、議会を定期的に開くと誓約した。こうしてフィンランド大公国には議会政治を通じての諸改革と近代的発展の時代が訪れた。アレクサンドル2世統治下で重要な役割を果たしたのはJ.V.スネルマンで1863年にセナーッティの蔵相に就任し、経済的な近代化の諸施策を指導したが、同時に言語に関するプログラムを推進した。スネルマンはアレクサンドル2世と会見し、それが決定的な影響を及ぼして「言語宣言」の発布となった。その宣言はフィンランド語にスウェーデン語と同等の地位を与えたもので、フィンランド語話者は役所でフィンランドを語を使って諸手続きを行ない、フィンランド語で書かれた公文書を受けとる権利を与えられた(但し実行まで20年の猶予付き)。

言語論争
フィンランド語を民族の言語とする運動に反発したのが上流階級だったスウェーデン語話者で当時の中央ヨーロッパでは人種論が流行りつつあり、彼らの主張に拠れば「スウェーデン人はフィンランド人より優秀な人種!」(フロイデンタール)で「フィンランド語はアジアの野蛮人が使う言語と同根」で「フィンランド語を使っていたらアジアの野蛮国同様になる!」だった。スウェーデン語系フィンランド人としてのアイデンティティはロシア統治下で湧き上がったフィンランドの民族運動がフィンランド語をよりどころとした事に対抗して形成された。それはフィンランドにおけるスウェーデン人と位置づけるのではなく「スウェーデン語を用いるフィンランド人」となった。

(※)スウェーデン統治時代の歴史もあってフィンランドの知識階級の言語は長い間スウェーデン語だった。フィンランド語は1860年代に司法上スウェーデン語と同等の立場を獲得したが知識階級の言語は19世紀末まではスウェーデン語だった。1548年にはM.アグリコラによる聖書のフィンランド語訳も出版されてはいたが、真の意味でフィンランド語の文学は1849年、E.リョンロットによる「カレワラ」出版、1860年代のA.キヴィによる小説、戯曲まで待たなければならなかった。詩の分野では当時のフィンランドを代表するのはJ.L.ルーネベルイだがルーネベルイはスウェーデン語で詩を書いた。現在でもスウェーデン語はフィンランド語と共にこの国の公用語となっている。

シベリウス...1NML===================
e0213636_13585684.jpg1865年12月8日ハメーンリンナにて20世紀を代表する作曲家の一人ジャン・シベリウスが誕生した。民族文化の芽生えた始めたばかりのフィンランド大公国に最適なタイミングで生まれたと言える。

(※)シベリウスはスウェーデン語系の家庭に生まれたが、シベリウスが通ったハメーンリンナの師範学校は当時、フィンランド有数のフィンランド語教育機関でフィンランド語で授業が行われていた。その師範学校はフィンランド語での教育に目的意識を持つ教育者によって創設されたため授業は全てフィンランド語で行われた。小都市ハメーンリンナにあったのはフィンランド語の立場を改善を妨害しようとするスウェーデン語系の人々の意図だった。

シベリウスは1885年にヘルシンキに移りヘルシンキ音楽院でヴェゲリウスに学んだが、大きな影響を受けたのはピアノ教師として赴任していたフェルッチョ・ブゾーニで、ブゾーニを通じてシベリウスは世界の音楽界の感触を得た。1889〜1890年にベルリン、1890〜1891年にはウィーンに留学したが、この時期はフィンランド語やフィンランド文化に目覚めた時期だった。1890年にベルリンで聴いたカヤヌスの交響詩「アイノ」(YouTube)はシベリウスにカレワラに基づく作品を着想するきっかけを与え、留学先で知り合った学友がほとんどフィンランドのことを知らなかったことや民族ロマン主義的な作品を書いていたこともシベリウスに刺激を与えた。ウィーンからの帰国後、カレワラに基づく「クッレルヴォ」(YouTube)で祖国の楽壇にデビューし、初演は大成功を収め一躍将来を期待される作曲家となった。クッレルヴォの成功後婚約者であったヤルネフェルト家の令嬢アイノと正式に挙式を行った。夫妻は結婚式後、新婚旅行でカレリア地方を訪れた。当時フィンランドの伝統文化の宝庫であるカレリア地方を旅する事は芸術家達の風潮だった。翌年(1893年)にはヴィープリの学生協会の委嘱に応え劇音楽「カレリア」(YouTube)を作曲した。この中の3曲からなる「カレリア組曲」は現在でも広く親しまれている。1895年にはカレワラに基づく四つの伝説曲(レンミンカイネン組曲)を発表し翌年(1896)の初演は成功を収めた。この頃にはフィンランドにおけるシベリウスの音楽上の地位は確固たるものになっていた。
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ロシア化政策と抵抗
19世紀末になるとフィンランドにも民族弾圧の波が押し寄せた。その背景は、国際対立の深まりでペテルブルクの西北周辺地域であるフィンランドをロシア帝国が軍事的に掌握する必要が出てきたこと、フィンランド大公国をロシア産業の独占市場として確保したい願望があったと思われる。1898年にフィンランド総督に任命されたボブリコフは「ロシア化」と称される大公国自治を奪う政策に乗り出した。ロシア化の第一弾は1899年にニコライ2世の名前で出された「二月宣言」でこの宣言はフィンランドの自治を奪い去る性格を持つものだった。危機意識を持ったフィンランド人は52万人の署名を携えた代表が二月宣言の撤回を求めるべく、ペテルブルクに赴いたがニコライ2世は面会を拒否してフィンランド人を失望させた。フィンランド人はロシアに抵抗したが、その方針を巡って国民の中でも対立がおこった。ロシアに対して正面から抵抗するのは破滅に繋がるので、可能な事項については譲歩しようとするグループは「協調主義者」と呼ばれ不服従運動によって諸権利を守ろうとするグループは「憲法主義者」と呼ばれた。国民の人気は「憲法主義者」にあったが、ボブリコフにより主だったメンバーはシベリア送りや国外追放にされた。

シベリウス...2=========================
シベリウスが交響曲第1番を完成したのは1899年でミエルクの交響曲の成功を意識したと言われる。この曲は4月の自作自演会で初演されたがこの時にはニコライ2世の二月宣言に反抗して作曲された「アテネ人の歌」も一緒だった。同年11月にはロシアの弾圧が強まる中で新聞関係者による年金基金のための行事が行われた。3日間の行事のハイライトはヘルシンキのスウェーデン劇場での歴史劇「歴史的情景」の上演でシベリウスはこの劇の音楽を担当し序曲と6つの場面のための音楽を作曲した。この中の最終場面「フィンランドの目覚め」のための音楽は後に独立した交響詩「フィンランディア」としてシベリウス作品中最も有名な曲となった。フィンランディアは愛国心をかき立てる曲として演奏を禁止されたが曲名を変更していたるところで演奏された。

ヨーロッパにおける1900年の重要な出来事はパリで開かれた万国博覧会でロシアの圧政に苦しむフィンランドにとって自国の名を広めるチャンスとなった。建築家のヘルマン・ゲセリウス、アルマス・リンドグレン、エリエル・サーリネンは強い印象を与えるフィンランドのパヴィリオンを設計しガッレン・カッレラが天井のフレスコ画を描いた。音楽界もこの催しに参加を決定しカヤヌスを団長(指揮者)、シベリウスを副指揮者としたヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団はパリに向けて演奏旅行を行った。一行は7月初めにヘルシンキを発ち、ストックホルムを皮切りに、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギーの各都市を演奏してまわり、7月末にパリに到着した。演奏旅行でメインとなったのはシベリウスの作品で交響曲第1番、フィンランディア、クリスティアン王2世、2つのカレワラによる伝説曲等が用意された。演奏旅行では、至る所で批評家達はオーケストラの質に目をみはり、作曲家シベリウスの名はヨーロッパに広まった。

パリ万国博覧会の翌年(1901)シベリウスはイタリアに出掛けラパロで交響曲第2番の作曲に取り掛かり同年完成。1902年3月8日に作曲家自身の指揮で初演された。この初演は大成功ですぐにアンコール公演が開かれた。この曲はフィンランド的な自然の反映が濃く、ロシア圧政下のフィンランドの姿と未来への希望が象徴的に示されているように聴き取れるためフィンランディア同様に大衆の熱狂的な歓迎を受けロシアの官憲を刺激した。交響曲第2番の成功後はヴァイオリン協奏曲を作曲したが準備不足もあり1904年の初演は失敗に終わった。
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ロシアの弾圧の緩和
1904年にロシア化政策を進めていたフィンランド総督ボブリコフがフィンランド人の一青年シャウマンによって暗殺された。フィンランド人は報復を恐れたが、後任のナポレンスキーは弾圧政策を緩和した。当時、ロシアは日露戦争に忙殺されておりフィンランドで問題がおこることを得策としなかった。このロシアの対応をフィンランド人はロシアの弱みと受け取り反抗の機運は強まった。1905年11月にはニコライ2世は「二月宣言」の効力を停止する約束し、身分制議会は一院制の国会に変革され1907年には第1回の国会選挙が行われた。

シベリウス...3===============================
1903年秋、シベリウスは「ヘルシンキでは私の内なる歌が死んだ...。」と語り、トゥースラ湖畔のヤルヴェンパーに住まいを移し以後この地で過ごした(ラルク・ソンク設計のアイノラ荘)。移住した頃には、海外におけるシベリウスの評価は更に拡がっていた。1905年に最初の訪英を行なったが、そこでグランヴィル・バントック卿とローザー・ニューマーチと知己として得た。2人はシベリウスが天才であるとすぐに確信し、イギリスにおけるシベリウス理解のための基礎作りに決定的な役割を果たした。アイノラ移住後の初の大作は交響曲第3番でこの曲では民族色は後退し曲は凝縮度の高い古典的表現にいたった。初演は賛否両論でこれまでのような成功とは程遠かった。聴衆はこれまで作品同様の強い民族色や愛国の調べを求めておりシベリウスの作風の変化を喜ばなかった。
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第二次ロシア化
1905年にフィンランド弾圧の手を緩めたロシアが第二次の弾圧を開始したのは1908年からである。しかも今回のロシア化は以前のものと比較して巧妙かつ徹底的に行われた。1910年3月に、ニコライ2世は大公国の自治の権利を奪う法律をロシア帝国国会に制定させた。この新立法によりセナーッティは大公国の市民権を持つロシア人官僚が支配するロシア帝国の出先機関に過ぎなくなった。フィンランド人の手に残された国会もロシア皇帝に解散権を握られ実質的な機能を停止した。

シベリウス...4====================
e0213636_18554546.jpgこの時期(1908~)からシベリウスは喉の腫瘍に悩まされた。後に手術により快復したが病気の再発を恐れ以後数年常に死に接した感情の中で過ごした。この時期は放蕩癖のあったシベリウスの家計の危機がピークであった時期とも重なる。シベリウスの支援者カルペラン男爵はフィンランドの富裕な人々多数に向けて秘密の手紙を書き送り、1910年からシベリウスの救済活動が開始されフィンランド国民の援助によってシベリウスは危機を回避出来た。この時期の記念碑は交響曲第4番で1909年のコリ(北カレリア)への旅から作曲の啓示を受けたと言われる。1911年に完成したこの曲の初演は聴衆に全く受け入れられず演奏後の拍手は国民的な英雄に対する儀礼だった。シベリウスは「どんな作曲家もこれ以上の曲は創れまい」と語り、第3楽章は作曲家の遺志により葬儀の際に演奏された。
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第一次世界大戦とフィンランドの独立
第一次世界大戦が勃発すると、当初は戦火の脅威の薄かったバルト海沿岸地方もドイツの東方進撃の対象となり、フィンランド南部にはロシア兵と現地住民が動員されて要塞の建設が始まり、フィンランド駐留ロシア兵も増強された。またロシア軍に徴兵されたフィンランド人は特に危険な地域に出兵した。大戦によって加速化された第二次ロシア化に新しい局面をもたらしたのは1917年のロシアの「二月革命」だった。ロシア本国における皇帝権力の崩壊の結果、フィンランドではロシア人が実権を握っていた旧セナーッティが消滅し1916年の選挙で国会に103議席を得ていた社会民主党が指導者トコイを副議長(事実上の首相)とする新セナーッティが成立した。1917年12月6日にはセナーッティ議長スヴィンヒューヴドが提案した独立宣言がロシア側との交渉を宣言の前提とすべきだとする社会民主党の主張を100対88で破って採択されフィンランドは独立を宣言した。スヴィンヒューヴド政権を構成するブルジョワ諸党は社会改革には目を向けず反体制的動きを力で抑えようとした。これがフィンランド国内の対立を公然たる衝突に導く重大な契機となり内戦が始まった。

シベリウス...5====================
e0213636_13542656.jpgこれまでの数年間の音楽上の彷徨にも関わらずフィンランドの音楽文化生活におけるシベリウスの重要性は低下するものではなかった。1915年12月8日、作曲家の50歳の祝典音楽祭で初演された交響曲第5番は一般聴衆に「ホッとした」喜びをもって迎えられた。この数年の苦渋に満ちた作品と比較して遥かに伝統的で明るい光に満ち溢れていたからである。シベリウスはこの曲に改訂の必要を認め最初の改訂稿が1年後に完成。最終稿は1919年に完成した。この間の1917年12月6日にフィンランドがロシアからの独立を宣言。1918年の内戦ではアイノラは赤軍によって捜索された。この時期にシベリウスと家族が生き延びられたのは奇跡であった。

1923年、24年にそれぞれ交響曲第6番、第7番を完成。交響曲第7番ではシベリウスがそれまで交響曲で追求してきた調和と論理性を最終的に具現した。最後の大作は交響詩「タピオラ」で、この曲でシベリウスは久しぶりにカレワラの世界に戻ってきた。その歴史的深遠感、神秘感を創り上げたこの曲は交響詩ジャンルの作品中最高のものとして輝く。この後、シベリウスの作曲の筆は途切れがちとなった。完成が期待された交響曲第8番は「何度か完成した」にも関わらず、作曲家の自己批判により焼却された。1930年から57年の間、シベリウスはほとんど作品を残さなかった。この時期は「アイノラの静寂」と呼ばれる。

~1957年9月18日水曜日
南に向かって旅する何羽かの鶴の群れがアイノラの頭上を飛んだ。シベリウスは急いで外へ出て、鳥達が低く飛ぶのを見て嬉しく思った。鳥達の鳴き声がとてもよく聞こえた。・・・「突然一羽が群れから離れ、あたかも礼を尽くすように家のそばでゆっくりと一回りし、そしてまた旅の連れの所へ戻り、一緒に大空へと消えていった。」・・・その2日後、1957年9月20日9時15分、ヘルシンキ大学の講堂で交響曲第5番が鳴り響いている頃、シベリウスは91歳の生涯を終えた。世界の新聞が交響曲作曲家としての最後の巨匠の追悼記事を載せた。葬儀はヘルシンキの大聖堂で行われたがセナーティントリ広場は端まで人で一杯であった。ヤルヴェンパーまで行進した行列の道筋は、人垣で埋めつくされた。シベリウスはアイノラの南側の庭に埋葬された。

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by suomesta | 2016-01-01 00:07 | フィンランド音楽史
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