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(4)戦前のモダニストたち

<フィンランドの独立と内戦>
1917年11月、ロシアは革命の動乱に突入していた。ボリシェビキ革命政権はフィンランド独立への動きを黙認。フィンランド自治政府は独立宣言を提議し同年12月6日にスヴィンヒューヴド内閣が可決した。ロシアの大公国時代より約100年、スウェーデン王エリク9世の十字軍遠征以来750年以上の歴史を経てフィンランドは独立を果たした。

独立したフィンランドは直後に西欧民主主義か共産主義体制かをめぐっての内戦(1917~18)に突入した。ロシア革命政権はフィンランドを共産主義化すべく扇動。フィンランド国内の社民党内の過激左派は赤軍を編成し「社会主義労働共和国」の樹立を宣言。民族派のマンネルへイム将軍率いる白軍と内戦ではタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリで激戦が行われた。この間シベリウスの自宅は1918年2月12~13日に赤軍に捜索されマデトヤは兄が赤軍によって殺害されクーラは白軍のパーティの際、銃弾に倒れた(内戦は1918は5月白軍の勝利に終わった)。フィンランド独立(1917)とその後の内戦は国内の大変革をもたらし音楽界も例外ではなく伝統的調性音楽から離れた作曲家の登場として表れた。モダニズムをフィンランドに紹介したのはロシアからの移民エルネスト・パングー(→NML・1887~1942)で1918年にヘルシンキで自作演奏会を開いた時のことだった。フィンランド出身ではヴァイノ・ライティオ(→NML・1891~1945)とアーッレ・メリカント(1893~1958)がモダニストの中核をなした。これらの作曲家の主要作品は1920年代に書かれており「1920年代のモダニズム」と呼ばれている。

<アーッレ・メリカント>NML
e0213636_22183775.jpg1920年代のモダニズムの中心はアーッレ・メリカント(1893~1958)で1893年に誕生した。当時フィンランドの人気作曲家であったオスカルを父に持つアーッレにとって作曲家となる事は天によって与えられた運命であった。アーッレは成長するに従い父オスカルの音楽語法から遠ざかりその作品はしぶしぶ演奏されるかあるいは全く演奏されなかった(父オスカルは息子の歩む道に批判的だったがいつも暖かく息子への援助を惜しまなかった)。アーッレは1912年から14年にかけてライプツィヒでマックス・レーガーに学び、1915年から翌年にかけてモスクワでワシレンコに師事した。モスクワではスクリャービン作品を通じて色彩豊かな音の世界に目覚め、そこから最も急進的なスタイルが生み出された。

1910年代の模索の時代を経たアーッレの作品は1922年作曲のオペラ「ユハ」として結実したがフィンランドオペラはこの曲の演奏を拒否しアーッレの生前には演奏されなかった。アーッレが急進的なスタイルを発展させた時期はフィンランドでは民族ロマン主義が全盛の時代だった。アーッレの作品にもロマン主義的な要素は見出せるが、そこに表現主義的な力強さと、印象主義的な豊富な色彩感が混じり混んでいる。1923年に作曲された「オーケストラのための幻想曲」の初演は先送りされ...約30年後の1952年に初演された。1924年作曲の「パン(牧神)」は賛美と非難を同時に浴び...1925年作曲の傑作ヴァイオリン協奏曲第2番や1928年の重要作「交響的習作」は...共にアーッレの生前は演奏されなかった。この時期のアーッレの成功作は通称「ショット協奏曲」でドイツの出版社ショットが主催する作曲コンクールに優勝した(1925)。

1930年代はアーッレが先進的なスタイルに別れを告げた時期である。作品は簡素化し伝統的なスタイルとなっている。これは20年代の作品が非難された影響か、自然な成長の結果かは未解決のフィンランド音楽史上の大問題である。外的には晩年のアーッレは成功に恵まれていた。1936年にはシベリウス音楽院で教鞭を執り1951年からは作曲科の教授に任命された。またコンクールでは非常な良績を上げており、ヴァイオリン協奏曲第4番(1954)でフィンランド文化基金コンクールに優勝し、ピアノ協奏曲第3番(→YouTube)で同コンクールで2位となり、1956年には同コンクールで1位(愚か者)と2位(創世記→YouTube)を独占した。

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<歌曲王ユルヨ・キルピネン>NML
e0213636_12272049.jpgキルピネン(1892~1959)は当時のフィンランド人作曲家としては異色の存在で、フィンランド語系の父を持ち、スウェーデン語系の母を持ち、若い頃からドイツ語を学び作曲分野をほぼ歌曲のみに専念した。フィンランド語歌曲を339曲、スウェーデン語のものを164曲、ドイツ語のものを229曲作曲したキルピネンは「フィンランドの歌曲王」と呼ばれる。その作品に純粋なオーケストラ曲はなく、オーケストラ伴奏に編曲された歌曲が36存在するのみで、それもほとんどが他の作曲家の手によるもので自身の手によるものは3曲しかない。

キルピネンはヘルシンキ音楽院で学んだ後、ウィーンとベルリンで学んでいる。その後、北欧諸国をはじめヨーロッパ各地を演奏旅行した。1920年代には数多くのコンサートが国内外で持たれ、もっとも充実した時期だった。またラップランドやスウェーデンで生活した経験もあり作品にもよい意味で反映されている。キルピネンが作曲したものはフィンランドのE.レイノ、V.A.コスケンニエミの詩からスウェーデン語ではE.ヨセフソン、B.ベルイマン、ラゲルクヴィスト、ドイツ語ではリルケ、ヘルマン・ヘッセ、セルゲル、モルゲンシュテルンに及ぶ。また歌曲のスタイルは前期フィンランド語歌曲シリーズ、スウェーデン語歌曲シリーズ、ドイツ語歌曲シリーズ、後期フィンランド語歌曲シリーズと4つに分類が可能でその作風も異なっている。

前期フィンランド語時代(1912~1921)ではE.レイノ、V.A.コスミケンニエミなどの詩に作曲した。この時代のキルピネンの作曲スタイルはヴォルフによって確立されたドイツリートの伝統に融合しており、独唱曲というよりも室内楽的性格が強い。スウェーデン語時代(1922~1927)にはE.ヨセフソン、B.ベルイマン、ラゲルクヴィスト等の詩人の詩に作曲を行った。作曲スタイルは簡素化し、ユーモラスな面に加え哲学的な瞑想が表れている。ドイツ語時代は1928年からでリルケ、ヘッセ、セルゲル等の詩人の詩に作曲を行った。その他モルゲンシュテルンには75曲作曲している。1930年代のドイツでキルピネンの作品は特に好まれたが、ドイツ語の詩が多く用いられていたことにもよるが、ドイツリートで用いられる「死」や「孤独」がテーマとして用いられていることにもよる。1946年に再びフィンランド語に興味を示したキルピネンはカンテレタル64曲に作曲を行った(1948~1950)。この作品では古風な作曲スタイルに戻っている。

キルピネンの特徴は同一の詩人のテキストに作曲した何十ものシリーズがあり、37曲あるコスケンニエミの詩による歌曲は全て1921年、75曲あるモルゲンシュテルンの詩によるものは全て1928年に作曲されている。このため「キルピネンは詩に作曲したのでなく、詩人に作曲した」とも言われる。キルピネンはドイツリートを復活させた作曲家として特にドイツで、加えてイギリスでも名声を獲得した。

(※)キルピネン・歌曲集NML
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<ウーノ・クラミ>NML
U.クラミ(1900~1961)はシベリウスに続く世代の作曲家の中で中心的な存在となった。早い時期に両親を亡くし、子供の頃に音楽教育を受けることはなかったが15歳で義務教育を終えるとすぐにヘルシンキ音楽院でメラルティンに学んだ。その後、パリを留学先に選んだが管弦楽は音楽院でも海外留学でも正式には学んでおらずほとんど独学であった。生来のオーケストラ作曲家であったクラミはオーケストラの可能性をこれと言った努力無しに掌中に収めていた。

1924年にヘルシンキ音楽院を卒業したクラミはパリに留学。ここでモーリス・ラヴェルやフローラン・シュミットと知り合った。パリ滞在中に接した音楽のうち、とりわけラヴェル、ストラヴィンスキー、スペインの作曲家たちの影響は、後の作品に色濃く反映された。

1925年に帰国したクラミはピアノ協奏曲「モンマルトルの一夜」とカレリア狂詩曲でフィンランド楽壇にデビューした。1928年の演奏会で取り上げられたカレリア狂詩曲はクラミの初期作品中最も人気のある曲となったが、伝統的な民族ロマン主義から全く外れており決定的にシベリウスの影響から離れたものであった。クラミがデビューした1928年頃はフィンランド音楽史の中で最も面白い10年が終わろうとしていた時期である。当時、シベリウスは後期作品を書き終え(交響曲第6番、第7番、交響詩「タピオラ」)、レーヴィ・マデトヤは全盛時代を迎えていた(オペラ「ポホヤの人々」、交響曲第3番)。またパングー、ライティオ、アーッレ・メリカントら若きラディカルな作曲家が新しい発想で作曲し賛否両論を呼んだ時代でもあった。クラミは1920年代のモダニストの仕事を引き継いだが彼らほど深入りせず、調性音楽の域に留まっていたため作品は好意的に受け止められた。

第1回の演奏会後、ウィーンに留学(1928〜1929)したが、ここでも影響を与えたのはラヴェルであった。1931年には第2回目の作品演奏会が開かれ国内での評価は確立した。新時代の旗手の地位を確立すると、原始主義やジャスをはじめ、様々な音楽のエッセンスを柔軟かつ貪欲に吸収しつつ精力的に作品を書き続けた。

(※)第2回目の作品演奏会では管弦楽のための<3Bf>が明らかにラヴェルのボレロに似ていたため最大の論議を呼び、この<3Bf>は管弦楽組曲「海の情景」の最終曲として組み入れられた。

古代フィンランド的な賛美歌の歌詞に作曲されたオラトリオ「詩篇」は1937年の初演により損をしており1960年代初めからの演奏によりこの曲の意義が認識され出した。この曲では以前のようなラヴェルやストラヴィンスキーの影響を捨て去っている。管弦楽作品中の代表作「カレワラ組曲」は10年以上の歳月をかけて1943年に完成された。この曲では恐れていたシベリウスの影響からは逃れたが、ストラヴィンスキーの影響が見られる作品となった。

従来のフィンランド音楽と適度に異なるクラミの作品はモダニスト世代の中でも顕著な地位を獲得した。1938年からはフィンランド政府の芸術家年金を支給され、1959年にはフィンランド音楽アカデミーの会員に選ばれた。アカデミー会員として取り組んだ未完のバレエ「渦巻」は第2幕から編まれた二つの組曲でのみ知られていたが、1985年に最初の2幕のピアノ譜と全3幕の台本が発見され、カレヴィ・アホがオーケストレイションした第1幕が1988年に初演された。

by suomesta | 2016-01-01 00:05 | フィンランド音楽史
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