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(3)19世紀後半生まれの作曲家

<19世紀後半生まれの主な作曲家>
R.カヤヌス(1856~1933)/J.シベリウス(1865~1957)/O.メリカント(1868~1924)/A.ヤルネフェルト(→NML・1869~1958)/E.メラルティン(1875~1937)/H.クレメッティ(1876~1953)/E.ミエルク(1877~1899)/S.パルムグレン(1878~1951)/T.クーラ(1883~1918)/H.カスキ(1885~1957)/E.パングー(1887~1942)/L.マデトヤ(1887~1947)/V.ライティオ(1891~1945)/I.ハンニカイネン(1892~1955)/Y.キルピネン(1892~1959)/A.メリカント(1893~1958)/U.クラミ(1900~1961)

<音楽界の基盤整備の時代>
(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_1542028.jpg19世紀後半は音楽界にとって基盤整備の時代だった。1882年にM.ヴェゲリウスがヘルシンキ音楽院(後のシベリウス音楽院)を創設。同じ年にR.カヤヌス(→NML)はヘルシンキ・オーケストラ協会(後のヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団)を設立した。このため1882年はフィンランド音楽史上重要な年とされている。ヴェゲリウスはヘルシンキ音楽界の中心人物になると夢見たが、カヤヌスがオーケストラ協会を設立したことによって挫折を味あわされた。カヤヌスも自分がフィンランド最大の作曲家となることを望んだがシベリウスの弦楽四重奏曲イ短調の初演(1889年)に居合わせ自分より9歳若いシベリウスがフィンランド作曲界の第一人者となったことを認めた。ヴェゲリウスはシベリウスを始めとする優れた作曲家を育て音楽教育史に名を残した。カヤヌスはシベリウスの音楽をすぐに理解し後にはシベリウスの最大の擁護者となった。1930年代に録音されたカヤヌスのシベリウス演奏は今日でもなお聞き手に素晴らしい感銘を呼びおこす。

(※)当時、ピアニストとして既に名声を獲得していたフェルッチョ・ブゾーニはヘルシンキ音楽院のピアノ科の教授を務めた経験がある。すぐにブゾーニを囲む熱烈なグループ(シベリウスやヤルネフェルト兄弟など)が出来たが、ブゾーニは彼らに「ウィーンでもライプツィヒでも音楽院にはオーケストラがここにはない...この国は音楽に関しては非常に遅れている」...カヤヌスのオーケストラに関しては「あのオーケストラにはドイツ人音楽家30人とフィンランド人は2〜3人だ。君たちはあれをフィンランドのオーケストラと呼べるか?あれがフィンランド人の集団なった時に君たちはそれを誇りたまえ」と話した。

19世紀後半には音楽界のインフラ整備が進む中で、作曲界も20世紀前半に黄金時代を迎えた。しかしこの時代はシベリウスの陰で報われることの少ない作曲家達にとっての「灰色の時代」とも呼ばれる。国際的な成功を収めたのは一芸に秀でた歌曲王・キルピネンとピアノ音楽のパルムグレンだけで大衆的な人気を収めたオスカル・メリカント、シベリウスに次ぐ重要な作曲家マデトヤも国際的な評価は得られなかった。
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<オスカル・メリカント>NML(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_1259294.jpg
シベリウスが生まれた3年後、オスカル・メリカントが誕生した(1868〜1924)。シベリウスが国際的な名声を獲得したのに対しメリカントは国際舞台に出ることはなかったが、後に国内での名声はシベリウスをも凌ぐものとなった。メリカントはフィンランド語による最初のオペラ「ポホヨラの娘」を作曲した民族主義者としての顔と歌曲を中心とした叙情作曲家としての顔に分けられるが、特に歌曲を中心とした叙情作曲家として広く知られる。メリカントの歌曲はあまりにも広く親しまれているために民謡と誤解されることも珍しくない。メリカントの歌曲が広く親しまれた理由は初めてフィンランド語詩に体系的に作曲を行ったことやメリカントが広くフィンランド中を旅行したことによる。また作曲以外でも教会のオルガンの検査官、オルガニスト、ピアニスト、教師、批評家として活躍した。とりわけ歌曲の伴奏者(ピアノ伴奏)として名高くシベリウスの代表的な歌曲「3月の雪のうえのダイヤモンド」の初演の伴奏も務めている。
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<ミエルク>NML
19世紀末、フィンランド音楽界の希望の星となったのはエルンスト・ミエルク(1877~1899)だった。生来病弱なミエルクは音楽を学び始めたのが10歳の時だが、驚異的な進歩ぶりをみせ1891~94年、1895~96年とベルリンに留学。M.ブルッフの最愛の弟子となった。1897年の交響曲ヘ短調(フィンランド初の交響曲)(YouTube)の初演は大成功で翌年のベルリンでのコンサートでも成功し一躍、最も将来を期待される作曲家となった。しかし1899年春、持病の結核が悪化し21歳で生涯を終えた。その早すぎる死はフィンランド音楽界最大の損失と言われる。ミエルクにはフィンランド初の交響曲作曲家、初めてベルリンでコンサートを開いた作曲家として栄光の地位が与えられている。
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<エルッキ・メラルティン>NML
(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_1736646.jpgカレリア地方のカキサルミに生まれたメラルティン(1875〜1937)は時代の潮流より普遍的な精神の営みに関心を傾けた。生来病弱だったがヘルシンキ音楽院でヴェゲリウスのもとに学び(1892〜1899)、優秀な成績で卒業した後、ウィーンに留学(1899〜1901)しローベルト・フックスに学んだが、この頃にはイタリアで神学も修めている。帰国後は夥しい量の作品制作に加え、オーケストラの指揮、ヴィープリ(現在はロシア領)での指揮活動に続く音楽学校の設立。1911年から36年までの間、ヴェゲリウスの後を継いでヘルシンキ音楽院の院長を務め、財政的にも困難な時期に音楽院の充実に貢献した。メラルティンは多方面にわたる趣味を持ち、豊かな教養を身につけており、画家としては個展を2度開いた腕を持つ。また著述家としては数か国語に訳された格言集「我は信ず」を残した。

作曲家としては幅広いジャンルの作曲を行い、シベリウスと同時期に6曲の交響曲を残しているが、シベリウスの影響からは自由でありマーラーの影響が見られる(メラルティンは北欧で初めてマーラーを指揮した経験を持つ)。これらの交響曲は当時は望むような評価は得られなかったが、1990年代に録音されると国内のみならず海外からも賞賛の的となった。またフィンランドの初の本格的バレエ「青い真珠」やカレワラを題材としたポスト・ワーグナー的なオペラ「アイノ」(YouTube)はフィンランド音楽史上重要な作品とされている。

(※)カレワラに基づくオペラ「アイノ」はオスカル・メリカントのオペラ「ポホヨラの娘」に続く2番目のフィンランド語によるオペラであるが、メリカント作品は現在は顧みられることがなくメラルティンの「アイノ」が初のフィンランド語による重要なオペラとされる。

メラルティンは幅広いジャンルで作曲を行っているが、ピアノ作品(約350曲)や歌曲(約300曲)に真価を発揮し、シベリウスに献呈されたピアノ曲「悲しみの園(The Melancholy Garden)」、聖書に題材を求めた「黙示録幻想(Fantasia Apocalyptica)」等はフィンランドピアノ音楽史上重要な作品とされる。メラルティンの作品にはカレリア地方人特有の激しい感情的振幅、生命の愉悦感も見られるが、作風は多様な変化を示している。印象主義、表現主義、カレリア地方の民族音楽がその作品に反映しているとされる。

1933年暮れから翌年春にかけてのインド、北アフリカ、エジプトへの船旅ではインド神秘哲学に触れるなど大きな収穫を得たが体力の消耗も激しく、帰国後は病いの床につくことになった。
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<セリム・パルムグレン>NML
(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_18245075.jpgS.パルムグレン(1878~1951)はシベリウス以降のフィンランド音楽界で最もシベリウスの影響を受けなかった作曲家の一人である。ストックホルムでリンドベルイ(リストの弟子)に就いていた姉アンニの手ほどきで幼少時よりピアノを学び始めロマン派ピアノ音楽の世界を吸収していった。1895年から1899年にヘルシンキ音楽院で作曲とピアノを学び、その後2年間ドイツでアンゾルゲ(リストの弟子)や巨匠ブゾーニにビアノをベルガーに作曲を学んでいる。また1906年から09年にかけてイタリアにも留学した。ヘルシンキ音楽院在学中の1898年には故郷のポリでコンサート・ピアニストとしてテビューしやがて国際的な名声を獲得した。

留学からの帰国後はヘルシンキ大学男声合唱団の指揮者を務め、トゥルクの音楽協会の指揮者としてオーケストラの指揮者も務めた。これらの活動は1912年で打ち切り以後はピアニスト及び作曲家として国内はもとよりヨーロッパ各地を演奏旅行した。1920年にはアメリカを演奏旅行し1921年から26年にかけアメリカ・ロチェスターのイーストマン音楽学校で教鞭を執っている。アメリカ帰国後はシベリウス音楽院(ヘルシンキ音楽院から改称)のピアノの教師として迎えられ1939年には音楽院の初代作曲科教授に任命され1951年の死まで続けられた。

最初の夫人マイッキ・ヤルネフェルトや彼女の死後再婚したミンナ・タルヴィクが共に歌手で、パルムグレン自身が合唱団の指揮者であったこともありパルムグレンは声楽曲も多数作曲したが重要作品は一部を除き自身の楽器ピアノに集中した。

パルムグレンは交響曲は作曲せずオーケストラ曲も稀であるがピアノ協奏曲を5曲作曲しておりそれらは構造上はファンタジー的である。中でも第2番「流れ(河)」はパルムグレンの全作品の中でも最も良く知られた曲で1919年の北欧音楽祭でも演奏され高い評価を得た。パルムグレンは「フィンランドのショパン」とか「フィンランドのシューマン」と呼ばれることがあり、ロマン主義のピアノを暗喩するものであるが、一方で印象主義のフィンランドへの紹介者ともされている。しかし、パルムグレンは特別にフランス音楽に興味を持ってはおらず「ショパンの墓」を作曲したりシューマンの活動について語ることはあったがドビュッシーについて語ることはなかった。
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<トイヴォ・クーラ>NML(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_20455496.jpg
T.クーラ(1883〜1918)はシベリウスの次世代でとりわけ才能の豊かな作曲家だった。クーラは色々な意味でシベリウスの影響を受けている(シベリウスに作曲を学んでいる)が作風はフランス音楽の影響を強く受けている。新しいフランス音楽(ドビュッシー、デュカス、ショーソン、マニャール)作品は1909年から1910年にかけてパリにいたクーラにとって神の啓示を受けたかのような経験となった。

1911年2月のヘルシンキでの自作演奏会では「声楽とオーケストラのための2つの伝説曲」が演奏されコンサートはその「完全なる革新」によって注目を浴び「クーラの上に立つものはただ一人」と評価された。1911~1913年にオウル、1914~15年にヘルシンキ、1916~18年にヴィープリで指揮者も務めた1914年に歌手のA.シルヴェントイネンと結婚。作曲の中心は声楽曲となった。合唱曲のなかで優れたものはフィンランドの合唱曲の古典の地位まで昇っている。

クーラは歌曲でもその才能を発揮しE.レイノやV.A.コスケンニエミの詩に作曲を行った。また1907年に南オストロボスニアの民謡を収集し後に12の南オストロボスニア民謡を発表した。最高傑作は混声合唱とオーケストラのためのスターバト・マーテル(YouTube)でクーラの死の後マデトヤによって完成された。最も有名な作品は「結婚行進曲」で現在でも結婚式の際に演奏される。クーラの死は悲劇的なものであった。1918年、フィンランド独立後の内戦末の暴力事件でヴィープリでその34歳の生涯を終えた。


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<レーヴィ・マデトヤ>NML
(3)19世紀後半生まれの作曲家_e0213636_15503423.jpgシベリウスの次の世代で最も重要な交響曲作曲家となったのはL.マデトヤ(1887〜1947)でヘルシンキで1908年〜1910年にシベリウスに学んだ経験を持つ。初期作品にはシベリウス的な和声や音形が見られるが、シベリウスから最も遠くへ離れた独自の方向へ向った作曲家でもあり、師のシベリウスがドイツ語圏に学んだのに対しフランスに惹かれ優雅さや洗練を備えた傑作を残した。

1906年にヘルシンキに移り住むが、翌年にはイングリア地方に民謡採集に出かけ約150曲の民謡を採集した。そのことが後の作品に多大な影響を及ぼすが、それは直接的な方法ではなく、安易な民族ロマン主義に甘んじることもなかった。この時代のフィンランドはロシア統治のもとロシア化政策が強まった時期で、音楽家にとっても民族ロマン主義的な作品を生み出すことが急務であったが、マデトヤにとって民族的なものを素材にした大作は交響詩「クッレルヴォ」だけである。1910年にヘルシンキでの勉強に区切りを付け自作の作品演奏会で大成功を収めたマデトヤはその一週間後にはパリ遊学に初めて出かけた。ヴァンサン・ダンディに学びたいとの希望は実らなかったもののスタイルの進歩という点では非常に意義深く、実り多いものであった。2回目の留学はウィーンだったが実り多いものではなかった。これらの留学の後、作曲活動に加え指揮、教育(音楽理論の教師、1926年から亡くなるまでヘルシンキ大学の音楽学教師を務めた)、評論と多方面で活躍を開始した。

(※)1917年、マデトヤが提唱したフィンランド作曲家協会が設立され、1937年、マデトヤ50歳の歳には「プロフェッサー」の称号を獲得すると、フィンランド作曲家著作権協会「テオスト」の会長に就任した。マデトヤがフィンランドの音楽界に果たした役割も見逃すことの出来ない重要な一面である。

作曲家としては1913年にカレワラに基づく交響詩「クッレルヴォ」(YouTube)を作曲し民族主義作曲家としてデビューした。1916年にヴィープリで完成した交響曲第1番は歓迎を受けたが本格的に注目を浴びるきっかけは1918年作曲の交響曲第2番でこの曲には内戦の影響が反映されている。この年、友人の作曲家クーラは銃殺され、マデトヤの兄も赤軍によって殺害されている。交響曲第2番は「シベリウスの交響曲以来フィンランドで書かれた最も意義深い作品」と評価されコペンハーゲンでの北欧音楽祭(1919)でも演奏され好評を博した。

マデトヤの創作力は1920年代に頂点に達した。1924年10月25日にフィンランド歌劇場(現在の国立歌劇場の前身)の記念すべき第1000回目演奏会で初演されたオペラ「ポホヤの人々(The Ostrobothnians/Pohjalaisia)」はシベリウスの交響曲第2番に匹敵する熱烈な歓迎を受けた。1925年には詩人でもある妻オネルヴァとフランスに旅立ち交響曲第3番に着手し翌年に完成。交響曲の分野ではシベリウスに次ぐ存在としての地位を確立した。マデトヤの代表作としては3つの交響曲と2つのオペラを挙げれるがシベリウスを手本としチャイコフスキーやフランス交響曲の影響を受け、交響曲第3番においてロマン主義の作曲家として完成したと言っても過言ではない。1925年のフランス旅行からは交響曲第3番以外に重要な作品、バレエ・パントマイム「オコン・フオコ(Okon Fuoko)」が生まれている。この曲では1920年代のモダニストに近いスタイル上の進歩をみせているがデンマーク作家ポール・クヌーセンの台本によるこの作品は音楽は高く評価されたが、ドラマ性を欠くとして台本は酷評された。マデトヤの創作力は2作目のオペラ「ユハ」(1934)の作曲以降、衰え始め1930年代後半にパリ駅で交響曲第4番の最終稿を入れたスーツケースを盗まれたがマデトヤには再度作曲する力は残っていなかった。

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<ヘイノ・カスキ>NML
北カレリア地方で生まれたヘイノ・カスキ(1885〜1957)はヘルシンキ教会オルガニスト学校とヘルシンキ・フィルハーモニック協会のオーケストラ学校に入学し、メラルティンにプライベートで作曲を学んだ。その後、シベリウスの推薦で4年間(1911〜14)給費留学生としてベルリンでパウル・ユオンに伝統的な室内楽や管弦楽法を学んだ。ベルリン留学は第一次世界大戦によって打ち切られフィンランドに帰ったカスキは一番の大作、交響曲ロ短調の作曲に取り掛かり内戦最中の1918年に完成した。翌1919年に交響曲はカヤヌスの指揮で初演され成功を収め、更に1920年から4年間ベルリン、イタリア、フランスに留学のチャンスが与えられた。フィンランドに戻った後は1926年から37年までヘルシンキ音楽院のピアノ教師となり、28年から50年まで小学校で歌を教えた。これらの職はカスキから大作への意欲と集中力を奪うことになりピアノや歌の小品以外に新しい意欲的な作品が生まれることはもはやなかった。1957年9月20日、シベリウスと同じ日に逝去したため最後まで目立たなかった。

(※)ヘイノ・カスキ:交響曲ロ短調YouTube
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<イルマリ・ハンニカイネン>NML
イルマリ・ハンニカイネン(1892〜1955)は父、ペッカ・ユハニも作曲家の音楽一家出身で5人兄弟の次男として生まれた。1911年にヘルシンキ大学に入学し、音楽学、美学、ラテン語を学ぶ一方でヘルシンキ音楽院にも籍を置き、メラルティンから作曲を学んだ。1913年からウィーンに留学したが第一次世界大戦のために短期で終わり、1916年からピエタリ(サンクト・ペテルブルク)でシロティーに師事し、シロティーとは後にピアノ・デュエットを組みロンドン、アントワープ、ストックホルム、オスロなどで演奏を共にした。イルマリはフィンランドが生んだ初めての国際的なピアニストで演奏活動ではバルト諸国は勿論、広くヨーロッパに及び特にパリとロンドンでは大成功を収めた。また弟のタウノ(チェロ)、アルヴォ(ヴァイオリン)と共にハンニカイネン・トリオを結成して多いに活躍した。イルマリはピアニスト、シベリウス音楽院(シベリウス音楽院)のピアノ教師(後に教授)、そして作曲家として深く敬愛されながら活動を続けたが1955年7月にパイヤンネ湖岸の別荘付近で溺死体で発見され自殺と考えられている。

(※)イルマリ・ハンニカイネン:ピアノ協奏曲YouTube


by suomesta | 2016-01-01 00:06 | フィンランド音楽史
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