<フィンランドの重要都市> トゥルクは1229年建設されスウェーデン支配下におけるフィンランドの中心都市となった。1640年にはアカデミー(大学)が創立されストックホルムと地理的に近いことから文化交流は現在でも活発である。トゥルクは教会音楽、ならびに世俗音楽の最初の中心地となった。1827年に大火に見舞われアカデミーはヘルシンキに移転。現在でもスウェーデン色を残す古都として有名である。1809年にフィンランドを支配下に入れたロシアはトゥルクとスウェーデンの交流を好ましく思わず1812年にヘルシンキを大公国の首都と定めた。1828年にはアカデミーがヘルシンキに移転し音楽もヘルシンキに移ってきた。1832年にはヘルシンキ大学講堂が完成し1971年にフィンランディアホールが完成するまでの音楽の中心地になった。シベリウスの主要作品はこの講堂で初演され、外国人演奏家も多数この講堂で演奏を行なった。19世紀にはヘルシンキの音楽界は驚くほど活発で国際的だった。これはロシアのペテルブルグの影響でペテルブルグに旅する音楽家の多くが途中ヘルシンキにも立ち寄った。由緒ある文化都市はヴィープリ(カレリア地方・現在ロシア領)で戦前はフィンランド第2の都市だった。第二次世界大戦でこの町をソ連に失ったことは、ここの音楽家や中心機関がフィンランドに引き揚げたにもかかわらず、この国の音楽界にとって大きな損失だった。 <フィンランド語の特殊性>
フィンランド文化の大きな特殊性はその言語にありそれはインド・ヨーロッパの言語グループには属さず、フィン・ウゴル系に属し他の北欧諸国ともロシアからも隔たっている。フィンランド語の文化は12世紀以降始まったキリスト教への改宗等より以前から既に出来上がっていた。 (※)主に言語学的な見地からフィンランド人は長らく「西暦1世紀の頃から、約1世紀かけてバルト海南岸から現在の地に移住した」と思われていた。しかし、1980年代になって考古学的な見地から移住してきたのは数千年前であるとされ現在の定説となっている。最新の遺伝子研究によるとフィンランド人には4分の3にいたるまでヨーロッパの血が流れているとされる。 <讃美歌> 1155年、フィンランドにスウェーデンからキリスト教が伝えられ、トゥルクの町に大聖堂聖歌学校が誕生した。フィンランドは1520年頃まではカトリックだったが16世紀中頃になると宗教改革の波が押し寄せ、フィンランド人の大部分はルーテル派となり、音楽はコラール中心となった。1548年には宗教改革者M.アグリコラによる新約聖書のフィンランド語訳が完成、1583年にはJ.スオマライネンによって讃美歌が編纂された。内容はドイツからのものが中心だが徐々にフィンランドのものも作られるようになった。フィンランドでは教会の礼拝で歌われる讃美歌の他に多くの民謡的な讃美歌も歌われてきた。19世紀中頃からフィンランド独立の1917年頃までの間に多くのアマチュアの合唱団が結成されまた19世紀の末頃までには主要な大聖堂に聖歌隊が結成され、今日まで活動が続けられている。 <ピエ・カンツィオーネス> 1583年にJ.スオマライネンによって讃美歌が編纂されたが、その1年前の1582年には同じくJ.スオマライネンとT.ペトリが中心となって聖歌集ピエ・カンツィオーネス(YouTube)が編纂された。「ピエ・カンツィオーネス」の原題は「古い時代の司教の教会および学校のための聖歌」で「教会と学校のための聖歌集」である。この聖歌集はスウェーデン最初の定律の記譜法で印刷された音楽作品であり、スウェーデン=フィンランド文化の輝かしい遺産である。この中には全74曲の聖歌が収められラテン語の詩が付され、歌うためのスウェーデン語が付されたものが何曲かある。74曲の約半数はフランス、イングランド、ドイツ、あるいはボヘミア起源であるが、世界の他の国に例が見られないものもあり、フィンランド起源のものと言われている。ピエ・カンツィオーネスは教会の歌だけでなく、学校の歌も収められている点が16、17世紀の他の歌集と異なっている。 <オルガン音楽> 16世紀の中頃に宗教改革の波が押し寄せ、フィンランドもルーテル派の国となり、コラールがフィンランド人の礼拝の中心となった。しかし初めはオルガン伴奏で歌われる事はなかった。16世紀末にはプロテスタントにもオルガンの重要性が浸透し、オルガンとコラールが結びつくようになりフィンランドもその影響を受けた。オルガン音楽の中心はトゥルクで14世紀頃には大聖堂にオルガンがあったとも言われている(17世紀末にはトゥルク、ヴィープリ他約10の都市にオルガンが備えられていた)。他の国ではオルガン音楽は、カトリック教会と結びつくことが多いがフィンランドではトゥルク大聖堂のオルガンと共に歩んできたと言える。19世紀までのフィンランドのオルガン音楽はルーテル派の礼拝と結びついており純粋な芸術音楽ではなかった。1882年にヘルシンキ・オルガニスト養成学校が設立されオルガニストの技術の向上に伴い、それに見合った曲が作られるようになった。 <ウィーン古典主義> フィンランドで最初の本格的なクラシック音楽機関はトゥルク演奏協会で1790年に創立され、1924年までオーケストラも所有していた(1927年以降はトゥルク・フィルハーモニー管弦楽団)。トゥルク演奏協会は楽譜の収集に力を注ぎ、マンハイム派の作曲家達のもの及び、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等のものが集められ、協会の活動に伴ってフィンランド初期のクラシック音楽作品作曲の歴史が始まった。当時の作曲家の作品にはフィンランド的なところはなく、ウィーン古典主義のスタイルで作曲されており、当時の作曲家でフィンランド領内で生涯作曲を続けたのはE.トゥリンドベルイ(1761〜1814)だけだった。この時期はウィーン古典主義時代と呼ばれており、トゥリンドベルイの他にビュストレーム(1772〜1839)、リタンデル兄弟、そしてクルーセルが知られている。 ------------------------------------------ <クルーセル>ウィーン古典主義時代を代表する作曲家はB.H.クルーセル(1775~1835)で19世紀を代表するクラリネット奏者としてもその名を歴史に残す。クルーセルはドイツのウェーバーやメンデルスゾーンと会う機会もあったが作品の手本となったのはモーツァルトで、その他にフランスのオペラや器楽の影響も指摘される。代表作はクラリネットのために書いた協奏曲(3曲)と四重奏曲(3曲)で21世紀となった現在でもコンサートホールの舞台にも登場する。 <フィンランド音楽の父・パシウス> フィンランド音楽の歴史で19世紀の重要な出来事はアカデミーのトゥルクからヘルシンキへの移転(1828)だった。ロシアはトゥルクがスウェーデンに近いことを嫌い首都をヘルシンキに置いたがアカデミーの新しい音楽教師はストックホルムから迎えられた。教師の名はフレドリク・パシウス(1809~1891)でこのハンブルグに生まれた音楽家はストックホルムの王室楽団のメンバーとしてスウェーデンに招かれた後、ヘルシンキにてフィンランド音楽の発展に全生涯を捧げた。パシウスの本領はオペラと声楽曲の分野で発揮された。最高傑作は友人で愛国精神に富んだ作家、Z.トペリウスが台本を手掛けたオペラ「国王カールの狩り」(YouTube) で1852年3月24日の初演は伝説的な成功を収めた。オペラの内容はフィンランドの歴史に関するもので、これがフィンランド初のオペラ作品(スウェーデン語)だった。声楽曲の分野ではイギリス、ドイツの詩人に加えJ.L.ルーネベルイ等、フィンランドの詩人達のものにも作曲しフィンランド民族歌謡の編集も行った。最も有名な歌曲はルーネベルイの詩「わが祖国」に作曲したものでこれは後にフィンランド国歌となった。晩年に至ってフィンランド音楽界の最長老となったパシウスは「フィンランド音楽の父」と呼ばれるようになり、その称号は現在でも使用されている。 (※)フィンランド国歌...J.L.ルーネベルイの詩「わが祖国」(1846年)にF.パシウスが曲をつけたもので1848年5月13日初演。ルーネベルイの詩はスウェーデン語で、フィンランド語の歌詞はP.カヤンデルが1890年頃つけたものである。 パシウスの楽曲にはエストニア語の歌詞も付けられそれは後にエストニア国歌となった。
by suomesta
| 2016-01-01 00:08
| フィンランド音楽史
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