<フィンランドの重要都市> トゥルクは1229年建設されスウェーデン支配下におけるフィンランドの中心都市となった。1640年にはアカデミー(大学)が創立されストックホルムと地理的に近いことから文化交流は現在でも活発である。トゥルクは教会音楽、ならびに世俗音楽の最初の中心地となった。1827年に大火に見舞われアカデミーはヘルシンキに移転。現在でもスウェーデン色を残す古都として有名である。1809年にフィンランドを支配下に入れたロシアはトゥルクとスウェーデンの交流を好ましく思わず1812年にヘルシンキを大公国の首都と定めた。1828年にはアカデミーがヘルシンキに移転し音楽もヘルシンキに移ってきた。1832年にはヘルシンキ大学講堂が完成し1971年にフィンランディアホールが完成するまでの音楽の中心地になった。シベリウスの主要作品はこの講堂で初演され、外国人演奏家も多数この講堂で演奏を行なった。19世紀にはヘルシンキの音楽界は驚くほど活発で国際的だった。これはロシアのペテルブルグの影響でペテルブルグに旅する音楽家の多くが途中ヘルシンキにも立ち寄った。由緒ある文化都市はヴィープリ(カレリア地方・現在ロシア領)で戦前はフィンランド第2の都市だった。第二次世界大戦でこの町をソ連に失ったことは、ここの音楽家や中心機関がフィンランドに引き揚げたにもかかわらず、この国の音楽界にとって大きな損失だった。 <フィンランド語の特殊性>
フィンランド文化の大きな特殊性はその言語にありそれはインド・ヨーロッパの言語グループには属さず、フィン・ウゴル系に属し他の北欧諸国ともロシアからも隔たっている。フィンランド語の文化は12世紀以降始まったキリスト教への改宗等より以前から既に出来上がっていた。 (※)主に言語学的な見地からフィンランド人は長らく「西暦1世紀の頃から、約1世紀かけてバルト海南岸から現在の地に移住した」と思われていた。しかし、1980年代になって考古学的な見地から移住してきたのは数千年前であるとされ現在の定説となっている。最新の遺伝子研究によるとフィンランド人には4分の3にいたるまでヨーロッパの血が流れているとされる。 <讃美歌> 1155年、フィンランドにスウェーデンからキリスト教が伝えられ、トゥルクの町に大聖堂聖歌学校が誕生した。フィンランドは1520年頃まではカトリックだったが16世紀中頃になると宗教改革の波が押し寄せ、フィンランド人の大部分はルーテル派となり、音楽はコラール中心となった。1548年には宗教改革者M.アグリコラによる新約聖書のフィンランド語訳が完成、1583年にはJ.スオマライネンによって讃美歌が編纂された。内容はドイツからのものが中心だが徐々にフィンランドのものも作られるようになった。フィンランドでは教会の礼拝で歌われる讃美歌の他に多くの民謡的な讃美歌も歌われてきた。19世紀中頃からフィンランド独立の1917年頃までの間に多くのアマチュアの合唱団が結成されまた19世紀の末頃までには主要な大聖堂に聖歌隊が結成され、今日まで活動が続けられている。 <ピエ・カンツィオーネス> 1583年にJ.スオマライネンによって讃美歌が編纂されたが、その1年前の1582年には同じくJ.スオマライネンとT.ペトリが中心となって聖歌集ピエ・カンツィオーネス(YouTube)が編纂された。「ピエ・カンツィオーネス」の原題は「古い時代の司教の教会および学校のための聖歌」で「教会と学校のための聖歌集」である。この聖歌集はスウェーデン最初の定律の記譜法で印刷された音楽作品であり、スウェーデン=フィンランド文化の輝かしい遺産である。この中には全74曲の聖歌が収められラテン語の詩が付され、歌うためのスウェーデン語が付されたものが何曲かある。74曲の約半数はフランス、イングランド、ドイツ、あるいはボヘミア起源であるが、世界の他の国に例が見られないものもあり、フィンランド起源のものと言われている。ピエ・カンツィオーネスは教会の歌だけでなく、学校の歌も収められている点が16、17世紀の他の歌集と異なっている。 <オルガン音楽> 16世紀の中頃に宗教改革の波が押し寄せ、フィンランドもルーテル派の国となり、コラールがフィンランド人の礼拝の中心となった。しかし初めはオルガン伴奏で歌われる事はなかった。16世紀末にはプロテスタントにもオルガンの重要性が浸透し、オルガンとコラールが結びつくようになりフィンランドもその影響を受けた。オルガン音楽の中心はトゥルクで14世紀頃には大聖堂にオルガンがあったとも言われている(17世紀末にはトゥルク、ヴィープリ他約10の都市にオルガンが備えられていた)。他の国ではオルガン音楽は、カトリック教会と結びつくことが多いがフィンランドではトゥルク大聖堂のオルガンと共に歩んできたと言える。19世紀までのフィンランドのオルガン音楽はルーテル派の礼拝と結びついており純粋な芸術音楽ではなかった。1882年にヘルシンキ・オルガニスト養成学校が設立されオルガニストの技術の向上に伴い、それに見合った曲が作られるようになった。 <ウィーン古典主義> フィンランドで最初の本格的なクラシック音楽機関はトゥルク演奏協会で1790年に創立され、1924年までオーケストラも所有していた(1927年以降はトゥルク・フィルハーモニー管弦楽団)。トゥルク演奏協会は楽譜の収集に力を注ぎ、マンハイム派の作曲家達のもの及び、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等のものが集められ、協会の活動に伴ってフィンランド初期のクラシック音楽作品作曲の歴史が始まった。当時の作曲家の作品にはフィンランド的なところはなく、ウィーン古典主義のスタイルで作曲されており、当時の作曲家でフィンランド領内で生涯作曲を続けたのはE.トゥリンドベルイ(1761〜1814)だけだった。この時期はウィーン古典主義時代と呼ばれており、トゥリンドベルイの他にビュストレーム(1772〜1839)、リタンデル兄弟、そしてクルーセルが知られている。 ------------------------------------------ <クルーセル>ウィーン古典主義時代を代表する作曲家はB.H.クルーセル(1775~1835)で19世紀を代表するクラリネット奏者としてもその名を歴史に残す。クルーセルはドイツのウェーバーやメンデルスゾーンと会う機会もあったが作品の手本となったのはモーツァルトで、その他にフランスのオペラや器楽の影響も指摘される。代表作はクラリネットのために書いた協奏曲(3曲)と四重奏曲(3曲)で21世紀となった現在でもコンサートホールの舞台にも登場する。 <フィンランド音楽の父・パシウス> フィンランド音楽の歴史で19世紀の重要な出来事はアカデミーのトゥルクからヘルシンキへの移転(1828)だった。ロシアはトゥルクがスウェーデンに近いことを嫌い首都をヘルシンキに置いたがアカデミーの新しい音楽教師はストックホルムから迎えられた。教師の名はフレドリク・パシウス(1809~1891)でこのハンブルグに生まれた音楽家はストックホルムの王室楽団のメンバーとしてスウェーデンに招かれた後、ヘルシンキにてフィンランド音楽の発展に全生涯を捧げた。パシウスの本領はオペラと声楽曲の分野で発揮された。最高傑作は友人で愛国精神に富んだ作家、Z.トペリウスが台本を手掛けたオペラ「国王カールの狩り」(YouTube) で1852年3月24日の初演は伝説的な成功を収めた。オペラの内容はフィンランドの歴史に関するもので、これがフィンランド初のオペラ作品(スウェーデン語)だった。声楽曲の分野ではイギリス、ドイツの詩人に加えJ.L.ルーネベルイ等、フィンランドの詩人達のものにも作曲しフィンランド民族歌謡の編集も行った。最も有名な歌曲はルーネベルイの詩「わが祖国」に作曲したものでこれは後にフィンランド国歌となった。晩年に至ってフィンランド音楽界の最長老となったパシウスは「フィンランド音楽の父」と呼ばれるようになり、その称号は現在でも使用されている。 (※)フィンランド国歌...J.L.ルーネベルイの詩「わが祖国」(1846年)にF.パシウスが曲をつけたもので1848年5月13日初演。ルーネベルイの詩はスウェーデン語で、フィンランド語の歌詞はP.カヤンデルが1890年頃つけたものである。 パシウスの楽曲にはエストニア語の歌詞も付けられそれは後にエストニア国歌となった。 #
by suomesta
| 2016-01-01 00:08
| フィンランド音楽史
スウェーデン領からロシア領へ
ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンとの密約に基づいてフィンランドの占領にとりかかった(1808)が気乗りはしていなかった。スウェーデンと戦争を始めると、ロシア軍は退却戦術をとるスウェーデン軍を追って楽にフィンランド、スウェーデン本土との境界に到達した。スヴェアボリ(後の「スオメンリンナ」)の要塞を守っていたスウェーデン兵もこれを簡単に明け渡した。予想より遥かに楽にフィンランドを占領するとアレクサンドル1世は、フィンランドを自己の手中に残そうと考えるにいたった。アレクサンドル1世は1809年3月29日に、ポルヴォーに身分制議会を招集し、自らその席に臨んでフィンランド従来のキリスト教信仰と住民の諸権利を尊重する旨を約束し、フィンランド側諸身分はアレクサンドル1世をフィンランド大公として仰ぐことを誓った。 フィンランド自治大公国 フィンランドがロシア帝国に接合された(1809)大公国となってからの統治機構はフィンランド大公としてのロシア皇帝の代表者であるフィンランド総督が、フィンランド駐在ロシア軍の総司令官を兼ねる形で赴任し、ペテルブルクにはフィンランド事務大臣が置かれて、ロシアの統治機関を介さず大公(ロシア皇帝)に直接、フィンランド関係の事項について進言を行う任務をおびていた。フィンランドの最高行政府はセナーッティと呼ばれ、議長はフィンランド総督がつとめることになっていたが、実際にはまれにしか出席せず、副議長が事実上大公国の首相の役割を果たしていた。大公国の財政はロシア帝国から独立しており、大公国は制度上は自治を保障されていた。しかしフィンランドがロシア帝国に接合された直後はフィンランドに有利な人事がなされたがウィーン体制が成立した頃からアレクサンドル1世は大公国に対して厳しい姿勢をとるようになった。 ヘルシンキが首都となる フィンランドがロシアに統合された1809年当時、トゥルクはフィンランドで最大かつ裕福な都市だった。また1640年に設立された王立アカデミーの存在により文化の中心ともなっていた。しかしロシアの支配下となるとトゥルクの地位は揺らぎ始めた。トゥルクは前統治国スウェーデンに近過ぎ、スウェーデン気質過ぎるというのがロシアの見解だった。ヘルシンキはトゥルクに比べると小規模な都市だったが、サンクトペテルブルクに近いことや最新式の要塞が都市を守っていることは魅力的であり1812年に首都とする公式決定が下された。フィンランドの民族覚醒フィンランドで民族的覚醒が進んだのはこのような時期で、先鞭を付けたのは1810年代にトゥルク大学の若い教師の間で形成された「トゥルク=ロマン派」だった。指導者はアルヴィドソンで、フィンランド人が民族とての自覚を高めるべきこと。及びそのためにフィンランド語を公用語とすべきことを説いた。アルヴィドソンの名言に「我々はもはやスウェーデン人ではない。だからと言ってロシア人にはなりえない。だからフィンランド人でいこう!」がある。フィンランドがスウェーデン王国の一部である状態ではフィンランド人としての自覚は生じない。ロシア帝国領となり異文化と接触して初めてフィンランドでは民族的自覚が生じた。アルヴィドソンの言動は政府批判の意味もあったため大学を追われたが、大学の移転とともに民族ロマンティシズムの潮流はヘルシンキにもたらされ、彼らは「土曜会」を開くうち、1831年にはフィンランド文学協会を作るにいたった。このグループの中から19世紀中葉のフィンランド民族文化の担い手が育ち、その一人リョンロットはロシア領のヴィエナ・カレリアにまで旅して、農民に伝わる民詩を採取し、叙事詩「カレワラ」と題して発表した。カレワラの初版は1835年でそれを大幅に増補した新カレワラの出版は1849年である。公用語であるスウェーデン語の陰に隠れ民衆の言語であるフィンランド語がこのように見事な文化的遺産を伝えてきたことが海外にも明らかとなり、フィンランド人に民族文化に対する強い自信を植え付けた。 (※)E.リョンロットによって1849年に出版されたカレワラは音楽にも大きな影響を与えた。最初のカレワラを題材とした作品はシャンツのクッレルヴォ序曲(1860年)で、J.シベリウスは1892年クッレルヴォ交響曲によって民族的音調言語を創り上げ、その100年後にはA.サッリネンのオペラ「クッレルヴォ」がロスアンジェルスで初演された。 言語宣言 1863年にアレクサンドル2世は約半世紀振りに、フィンランド大公としてヘルシンキに身分制議会を招集した。議会の開会式に臨んだアレクサンドル2世は、フィンランドを立憲君主国として統治する旨を述べた後、議会を定期的に開くと誓約した。こうしてフィンランド大公国には議会政治を通じての諸改革と近代的発展の時代が訪れた。アレクサンドル2世統治下で重要な役割を果たしたのはJ.V.スネルマンで1863年にセナーッティの蔵相に就任し、経済的な近代化の諸施策を指導したが、同時に言語に関するプログラムを推進した。スネルマンはアレクサンドル2世と会見し、それが決定的な影響を及ぼして「言語宣言」の発布となった。その宣言はフィンランド語にスウェーデン語と同等の地位を与えたもので、フィンランド語話者は役所でフィンランドを語を使って諸手続きを行ない、フィンランド語で書かれた公文書を受けとる権利を与えられた(但し実行まで20年の猶予付き)。 言語論争 フィンランド語を民族の言語とする運動に反発したのが上流階級だったスウェーデン語話者で当時の中央ヨーロッパでは人種論が流行りつつあり、彼らの主張に拠れば「スウェーデン人はフィンランド人より優秀な人種!」(フロイデンタール)で「フィンランド語はアジアの野蛮人が使う言語と同根」で「フィンランド語を使っていたらアジアの野蛮国同様になる!」だった。スウェーデン語系フィンランド人としてのアイデンティティはロシア統治下で湧き上がったフィンランドの民族運動がフィンランド語をよりどころとした事に対抗して形成された。それはフィンランドにおけるスウェーデン人と位置づけるのではなく「スウェーデン語を用いるフィンランド人」となった。 (※)スウェーデン統治時代の歴史もあってフィンランドの知識階級の言語は長い間スウェーデン語だった。フィンランド語は1860年代に司法上スウェーデン語と同等の立場を獲得したが知識階級の言語は19世紀末まではスウェーデン語だった。1548年にはM.アグリコラによる聖書のフィンランド語訳も出版されてはいたが、真の意味でフィンランド語の文学は1849年、E.リョンロットによる「カレワラ」出版、1860年代のA.キヴィによる小説、戯曲まで待たなければならなかった。詩の分野では当時のフィンランドを代表するのはJ.L.ルーネベルイだがルーネベルイはスウェーデン語で詩を書いた。現在でもスウェーデン語はフィンランド語と共にこの国の公用語となっている。 1865年12月8日ハメーンリンナにて20世紀を代表する作曲家の一人ジャン・シベリウスが誕生した。民族文化の芽生えた始めたばかりのフィンランド大公国に最適なタイミングで生まれたと言える。 (※)シベリウスはスウェーデン語系の家庭に生まれたが、シベリウスが通ったハメーンリンナの師範学校は当時、フィンランド有数のフィンランド語教育機関でフィンランド語で授業が行われていた。その師範学校はフィンランド語での教育に目的意識を持つ教育者によって創設されたため授業は全てフィンランド語で行われた。小都市ハメーンリンナにあったのはフィンランド語の立場を改善を妨害しようとするスウェーデン語系の人々の意図だった。 シベリウスは1885年にヘルシンキに移りヘルシンキ音楽院でヴェゲリウスに学んだが、大きな影響を受けたのはピアノ教師として赴任していたフェルッチョ・ブゾーニで、ブゾーニを通じてシベリウスは世界の音楽界の感触を得た。1889~90年にベルリン、1890~91年にはウィーンに留学したが、この時期はフィンランド語やフィンランド文化に目覚めた時期だった。1890年にベルリンで聴いたカヤヌスの交響詩「アイノ」(YouTube)はシベリウスにカレワラに基づく作品を着想するきっかけを与え、留学先で知り合った学友がほとんどフィンランドのことを知らなかったことや民族ロマン主義的な作品を書いていたこともシベリウスに刺激を与えた。ウィーンからの帰国後、カレワラに基づく「クッレルヴォ」(YouTube)で祖国の楽壇にデビューし、初演は大成功を収め一躍将来を期待される作曲家となった。クッレルヴォの成功後婚約者であったヤルネフェルト家の令嬢アイノと正式に挙式を行った。夫妻は結婚式後、新婚旅行でカレリア地方を訪れた。当時フィンランドの伝統文化の宝庫であるカレリア地方を旅する事は芸術家達の風潮だった。翌年(1893年)にはヴィープリの学生協会の委嘱に応え劇音楽「カレリア」を作曲した。この中の3曲からなる「カレリア組曲」は現在でも広く親しまれている。1895年にはカレワラに基づく四つの伝説曲(レンミンカイネン組曲)を発表し翌年(1896)の初演は成功を収めた。この頃にはフィンランドにおけるシベリウスの音楽上の地位は確固たるものになっていた。 ========================== ロシア化政策と抵抗 19世紀末になるとフィンランドにも民族弾圧の波が押し寄せた。その背景は、国際対立の深まりでペテルブルクの西北周辺地域であるフィンランドをロシア帝国が軍事的に掌握する必要が出てきたこと、フィンランド大公国をロシア産業の独占市場として確保したい願望があったと思われる。1898年にフィンランド総督に任命されたボブリコフは「ロシア化」と称される大公国自治を奪う政策に乗り出した。ロシア化の第一弾は1899年にニコライ2世の名前で出された「二月宣言」でこの宣言はフィンランドの自治を奪い去る性格を持つものだった。危機意識を持ったフィンランド人は52万人の署名を携えた代表が二月宣言の撤回を求めるべく、ペテルブルクに赴いたがニコライ2世は面会を拒否してフィンランド人を失望させた。フィンランド人はロシアに抵抗したが、その方針を巡って国民の中でも対立がおこった。ロシアに対して正面から抵抗するのは破滅に繋がるので、可能な事項については譲歩しようとするグループは「協調主義者」と呼ばれ不服従運動によって諸権利を守ろうとするグループは「憲法主義者」と呼ばれた。国民の人気は「憲法主義者」にあったが、ボブリコフにより主だったメンバーはシベリア送りや国外追放にされた。 シベリウス...2========================= シベリウスが交響曲第1番を完成したのは1899年でミエルクの交響曲の成功を意識したと言われる。この曲は4月の自作自演会で初演されたがこの時にはニコライ2世の二月宣言に反抗して作曲された「アテネ人の歌」も一緒だった。同年11月にはロシアの弾圧が強まる中で新聞関係者による年金基金のための行事が行われた。3日間の行事のハイライトはヘルシンキのスウェーデン劇場での歴史劇「歴史的情景」の上演でシベリウスはこの劇の音楽を担当し序曲と6つの場面のための音楽を作曲した。この中の最終場面「フィンランドの目覚め」のための音楽は後に独立した交響詩「フィンランディア」としてシベリウス作品中最も有名な曲となった。フィンランディアは愛国心をかき立てる曲として演奏を禁止されたが曲名を変更していたるところで演奏された。 ヨーロッパにおける1900年の重要な出来事はパリで開かれた万国博覧会でロシアの圧政に苦しむフィンランドにとって自国の名を広めるチャンスとなった。建築家のヘルマン・ゲセリウス、アルマス・リンドグレン、エリエル・サーリネンは強い印象を与えるフィンランドのパヴィリオンを設計しガッレン・カッレラが天井のフレスコ画を描いた。音楽界もこの催しに参加を決定しカヤヌスを団長(指揮者)、シベリウスを副指揮者としたヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団はパリに向けて演奏旅行を行った。一行は7月初めにヘルシンキを発ち、ストックホルムを皮切りに、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギーの各都市を演奏してまわり、7月末にパリに到着した。演奏旅行でメインとなったのはシベリウスの作品で交響曲第1番、フィンランディア、クリスティアン王2世、2つのカレワラによる伝説曲等が用意された。演奏旅行では、至る所で批評家達はオーケストラの質に目をみはり、作曲家シベリウスの名はヨーロッパに広まった。 パリ万国博覧会の翌年(1901)シベリウスはイタリアに出掛けラパロで交響曲第2番の作曲に取り掛かり同年完成。1902年3月8日に作曲家自身の指揮で初演された。この初演は大成功ですぐにアンコール公演が開かれた。この曲はフィンランド的な自然の反映が濃く、ロシア圧政下のフィンランドの姿と未来への希望が象徴的に示されているように聴き取れるためフィンランディア同様に大衆の熱狂的な歓迎を受けロシアの官憲を刺激した。交響曲第2番の成功後はヴァイオリン協奏曲を作曲したが準備不足もあり1904年の初演は失敗に終わった。 ============================== ロシアの弾圧の緩和 1904年にロシア化政策を進めていたフィンランド総督ボブリコフがフィンランド人の一青年シャウマンによって暗殺された。フィンランド人は報復を恐れたが、後任のナポレンスキーは弾圧政策を緩和した。当時、ロシアは日露戦争に忙殺されておりフィンランドで問題がおこることを得策としなかった。このロシアの対応をフィンランド人はロシアの弱みと受け取り反抗の機運は強まった。1905年11月にはニコライ2世は「二月宣言」の効力を停止する約束し、身分制議会は一院制の国会に変革され1907年には第1回の国会選挙が行われた。 シベリウス...3=============================== 1903年秋、シベリウスは「ヘルシンキでは私の内なる歌が死んだ...。」と語り、トゥースラ湖畔のヤルヴェンパーに住まいを移し以後この地で過ごした(ラルク・ソンク設計のアイノラ荘)。移住した頃には、海外におけるシベリウスの評価は更に拡がっていた。1905年に最初の訪英を行なったが、そこでグランヴィル・バントック卿とローザー・ニューマーチと知己として得た。2人はシベリウスが天才であるとすぐに確信し、イギリスにおけるシベリウス理解のための基礎作りに決定的な役割を果たした。アイノラ移住後の初の大作は交響曲第3番でこの曲では民族色は後退し曲は凝縮度の高い古典的表現にいたった。初演は賛否両論でこれまでのような成功とは程遠かった。聴衆はこれまで作品同様の強い民族色や愛国の調べを求めておりシベリウスの作風の変化を喜ばなかった。 ========================== 第二次ロシア化 1905年にフィンランド弾圧の手を緩めたロシアが第二次の弾圧を開始したのは1908年からである。しかも今回のロシア化は以前のものと比較して巧妙かつ徹底的に行われた。1910年3月に、ニコライ2世は大公国の自治の権利を奪う法律をロシア帝国国会に制定させた。この新立法によりセナーッティは大公国の市民権を持つロシア人官僚が支配するロシア帝国の出先機関に過ぎなくなった。フィンランド人の手に残された国会もロシア皇帝に解散権を握られ実質的な機能を停止した。 シベリウス...4==================== この時期(1908~)からシベリウスは喉の腫瘍に悩まされた。後に手術により快復したが病気の再発を恐れ以後数年常に死に接した感情の中で過ごした。この時期は放蕩癖のあったシベリウスの家計の危機がピークであった時期とも重なる。シベリウスの支援者カルペラン男爵はフィンランドの富裕な人々多数に向けて秘密の手紙を書き送り、1910年からシベリウスの救済活動が開始されフィンランド国民の援助によってシベリウスは危機を回避出来た。この時期の記念碑は交響曲第4番で1909年のコリ(北カレリア)への旅から作曲の啓示を受けたと言われる。1911年に完成したこの曲の初演は聴衆に全く受け入れられず演奏後の拍手は国民的な英雄に対する儀礼だった。シベリウスは「どんな作曲家もこれ以上の曲は創れまい」と語り、第3楽章は作曲家の遺志により葬儀の際に演奏された。 ========================= 第一次世界大戦とフィンランドの独立 第一次世界大戦が勃発すると、当初は戦火の脅威の薄かったバルト海沿岸地方もドイツの東方進撃の対象となり、フィンランド南部にはロシア兵と現地住民が動員されて要塞の建設が始まり、フィンランド駐留ロシア兵も増強された。またロシア軍に徴兵されたフィンランド人は特に危険な地域に出兵した。大戦によって加速化された第二次ロシア化に新しい局面をもたらしたのは1917年のロシアの「二月革命」だった。ロシア本国における皇帝権力の崩壊の結果、フィンランドではロシア人が実権を握っていた旧セナーッティが消滅し1916年の選挙で国会に103議席を得ていた社会民主党が指導者トコイを副議長(事実上の首相)とする新セナーッティが成立した。1917年12月6日にはセナーッティ議長スヴィンヒューヴドが提案した独立宣言がロシア側との交渉を宣言の前提とすべきだとする社会民主党の主張を100対88で破って採択されフィンランドは独立を宣言した。スヴィンヒューヴド政権を構成するブルジョワ諸党は社会改革には目を向けず反体制的動きを力で抑えようとした。これがフィンランド国内の対立を公然たる衝突に導く重大な契機となり内戦が始まった。 シベリウス...5==================== これまでの数年間の音楽上の彷徨にも関わらずフィンランドの音楽文化生活におけるシベリウスの重要性は低下するものではなかった。1915年12月8日、作曲家の50歳の祝典音楽祭で初演された交響曲第5番は一般聴衆に「ホッとした」喜びをもって迎えられた。この数年の苦渋に満ちた作品と比較して遥かに伝統的で明るい光に満ち溢れていたからである。シベリウスはこの曲に改訂の必要を認め最初の改訂稿が1年後に完成。最終稿は1919年に完成した。この間の1917年12月6日にフィンランドがロシアからの独立を宣言。1918年の内戦ではアイノラは赤軍によって捜索された。この時期にシベリウスと家族が生き延びられたのは奇跡であった。 1923年、24年にそれぞれ交響曲第6番、第7番を完成。交響曲第7番ではシベリウスがそれまで交響曲で追求してきた調和と論理性を最終的に具現した。最後の大作は交響詩「タピオラ」で、この曲でシベリウスは久しぶりにカレワラの世界に戻ってきた。その歴史的深遠感、神秘感を創り上げたこの曲は交響詩ジャンルの作品中最高のものとして輝く。この後、シベリウスの作曲の筆は途切れがちとなった。完成が期待された交響曲第8番は「何度か完成した」にも関わらず、作曲家の自己批判により焼却された。1930年から57年の間、シベリウスはほとんど作品を残さなかった。この時期は「アイノラの静寂」と呼ばれる。 ~1957年9月18日水曜日 南に向かって旅する何羽かの鶴の群れがアイノラの頭上を飛んだ。シベリウスは急いで外へ出て、鳥達が低く飛ぶのを見て嬉しく思った。鳥達の鳴き声がとてもよく聞こえた。・・・「突然一羽が群れから離れ、あたかも礼を尽くすように家のそばでゆっくりと一回りし、そしてまた旅の連れの所へ戻り、一緒に大空へと消えていった。」・・・その2日後、1957年9月20日9時15分、ヘルシンキ大学の講堂で交響曲第5番が鳴り響いている頃、シベリウスは91歳の生涯を終えた。世界の新聞が交響曲作曲家としての最後の巨匠の追悼記事を載せた。葬儀はヘルシンキの大聖堂で行われたがセナーティントリ広場は端まで人で一杯であった。ヤルヴェンパーまで行進した行列の道筋は、人垣で埋めつくされた。シベリウスはアイノラの南側の庭に埋葬された。 #
by suomesta
| 2016-01-01 00:07
| フィンランド音楽史
<19世紀後半生まれの主な作曲家>
R.カヤヌス(1856~1933)/J.シベリウス(1865~1957)/O.メリカント(1868~1924)/A.ヤルネフェルト(→NML・1869~1958)/E.メラルティン(1875~1937)/H.クレメッティ(1876~1953)/E.ミエルク(1877~1899)/S.パルムグレン(1878~1951)/T.クーラ(1883~1918)/H.カスキ(1885~1957)/E.パングー(1887~1942)/L.マデトヤ(1887~1947)/V.ライティオ(1891~1945)/I.ハンニカイネン(1892~1955)/Y.キルピネン(1892~1959)/A.メリカント(1893~1958)/U.クラミ(1900~1961) <音楽界の基盤整備の時代> 19世紀後半は音楽界にとって基盤整備の時代だった。1882年にM.ヴェゲリウスがヘルシンキ音楽院(後のシベリウス音楽院)を創設。同じ年にR.カヤヌス(→NML)はヘルシンキ・オーケストラ協会(後のヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団)を設立した。このため1882年はフィンランド音楽史上重要な年とされている。ヴェゲリウスはヘルシンキ音楽界の中心人物になると夢見たが、カヤヌスがオーケストラ協会を設立したことによって挫折を味あわされた。カヤヌスも自分がフィンランド最大の作曲家となることを望んだがシベリウスの弦楽四重奏曲イ短調の初演(1889年)に居合わせ自分より9歳若いシベリウスがフィンランド作曲界の第一人者となったことを認めた。ヴェゲリウスはシベリウスを始めとする優れた作曲家を育て音楽教育史に名を残した。カヤヌスはシベリウスの音楽をすぐに理解し後にはシベリウスの最大の擁護者となった。1930年代に録音されたカヤヌスのシベリウス演奏は今日でもなお聞き手に素晴らしい感銘を呼びおこす。 (※)当時、ピアニストとして既に名声を獲得していたフェルッチョ・ブゾーニはヘルシンキ音楽院のピアノ科の教授を務めた経験がある。すぐにブゾーニを囲む熱烈なグループ(シベリウスやヤルネフェルト兄弟など)が出来たが、ブゾーニは彼らに「ウィーンでもライプツィヒでも音楽院にはオーケストラがここにはない...この国は音楽に関しては非常に遅れている」...カヤヌスのオーケストラに関しては「あのオーケストラにはドイツ人音楽家30人とフィンランド人は2〜3人だ。君たちはあれをフィンランドのオーケストラと呼べるか?あれがフィンランド人の集団なった時に君たちはそれを誇りたまえ」と話した。 19世紀後半には音楽界のインフラ整備が進む中で、作曲界も20世紀前半に黄金時代を迎えた。しかしこの時代はシベリウスの陰で報われることの少ない作曲家達にとっての「灰色の時代」とも呼ばれる。国際的な成功を収めたのは一芸に秀でた歌曲王・キルピネンとピアノ音楽のパルムグレンだけで大衆的な人気を収めたオスカル・メリカント、シベリウスに次ぐ重要な作曲家マデトヤも国際的な評価は得られなかった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <オスカル・メリカント>→NML シベリウスが生まれた3年後、オスカル・メリカントが誕生した(1868〜1924)。シベリウスが国際的な名声を獲得したのに対しメリカントは国際舞台に出ることはなかったが、後に国内での名声はシベリウスをも凌ぐものとなった。メリカントはフィンランド語による最初のオペラ「ポホヨラの娘」を作曲した民族主義者としての顔と歌曲を中心とした叙情作曲家としての顔に分けられるが、特に歌曲を中心とした叙情作曲家として広く知られる。メリカントの歌曲はあまりにも広く親しまれているために民謡と誤解されることも珍しくない。メリカントの歌曲が広く親しまれた理由は初めてフィンランド語詩に体系的に作曲を行ったことやメリカントが広くフィンランド中を旅行したことによる。また作曲以外でも教会のオルガンの検査官、オルガニスト、ピアニスト、教師、批評家として活躍した。とりわけ歌曲の伴奏者(ピアノ伴奏)として名高くシベリウスの代表的な歌曲「3月の雪のうえのダイヤモンド」の初演の伴奏も務めている。 ーーーーー <ミエルク>→NML 19世紀末、フィンランド音楽界の希望の星となったのはエルンスト・ミエルク(1877~1899)だった。生来病弱なミエルクは音楽を学び始めたのが10歳の時だが、驚異的な進歩ぶりをみせ1891~94年、1895~96年とベルリンに留学。M.ブルッフの最愛の弟子となった。1897年の交響曲ヘ短調(フィンランド初の交響曲)(YouTube)の初演は大成功で翌年のベルリンでのコンサートでも成功し一躍、最も将来を期待される作曲家となった。しかし1899年春、持病の結核が悪化し21歳で生涯を終えた。その早すぎる死はフィンランド音楽界最大の損失と言われる。ミエルクにはフィンランド初の交響曲作曲家、初めてベルリンでコンサートを開いた作曲家として栄光の地位が与えられている。 ーーーーーー <エルッキ・メラルティン>→NML カレリア地方のカキサルミに生まれたメラルティン(1875〜1937)は時代の潮流より普遍的な精神の営みに関心を傾けた。生来病弱だったがヘルシンキ音楽院でヴェゲリウスのもとに学び(1892〜1899)、優秀な成績で卒業した後、ウィーンに留学(1899〜1901)しローベルト・フックスに学んだが、この頃にはイタリアで神学も修めている。帰国後は夥しい量の作品制作に加え、オーケストラの指揮、ヴィープリ(現在はロシア領)での指揮活動に続く音楽学校の設立。1911年から36年までの間、ヴェゲリウスの後を継いでヘルシンキ音楽院の院長を務め、財政的にも困難な時期に音楽院の充実に貢献した。メラルティンは多方面にわたる趣味を持ち、豊かな教養を身につけており、画家としては個展を2度開いた腕を持つ。また著述家としては数か国語に訳された格言集「我は信ず」を残した。 作曲家としては幅広いジャンルの作曲を行い、シベリウスと同時期に6曲の交響曲を残しているが、シベリウスの影響からは自由でありマーラーの影響が見られる(メラルティンは北欧で初めてマーラーを指揮した経験を持つ)。これらの交響曲は当時は望むような評価は得られなかったが、1990年代に録音されると国内のみならず海外からも賞賛の的となった。またフィンランドの初の本格的バレエ「青い真珠」やカレワラを題材としたポスト・ワーグナー的なオペラ「アイノ」(YouTube)はフィンランド音楽史上重要な作品とされている。 (※)カレワラに基づくオペラ「アイノ」はオスカル・メリカントのオペラ「ポホヨラの娘」に続く2番目のフィンランド語によるオペラであるが、メリカント作品は現在は顧みられることがなくメラルティンの「アイノ」が初のフィンランド語による重要なオペラとされる。 メラルティンは幅広いジャンルで作曲を行っているが、ピアノ作品(約350曲)や歌曲(約300曲)に真価を発揮し、シベリウスに献呈されたピアノ曲「悲しみの園(The Melancholy Garden)」、聖書に題材を求めた「黙示録幻想(Fantasia Apocalyptica)」等はフィンランドピアノ音楽史上重要な作品とされる。メラルティンの作品にはカレリア地方人特有の激しい感情的振幅、生命の愉悦感も見られるが、作風は多様な変化を示している。印象主義、表現主義、カレリア地方の民族音楽がその作品に反映しているとされる。 1933年暮れから翌年春にかけてのインド、北アフリカ、エジプトへの船旅ではインド神秘哲学に触れるなど大きな収穫を得たが体力の消耗も激しく、帰国後は病いの床につくことになった。 ーーーーーーーーーーー <セリム・パルムグレン>→NML S.パルムグレン(1878~1951)はシベリウス以降のフィンランド音楽界で最もシベリウスの影響を受けなかった作曲家の一人である。ストックホルムでリンドベルイ(リストの弟子)に就いていた姉アンニの手ほどきで幼少時よりピアノを学び始めロマン派ピアノ音楽の世界を吸収していった。1895年から1899年にヘルシンキ音楽院で作曲とピアノを学び、その後2年間ドイツでアンゾルゲ(リストの弟子)や巨匠ブゾーニにビアノをベルガーに作曲を学んでいる。また1906年から09年にかけてイタリアにも留学した。ヘルシンキ音楽院在学中の1898年には故郷のポリでコンサート・ピアニストとしてテビューしやがて国際的な名声を獲得した。 留学からの帰国後はヘルシンキ大学男声合唱団の指揮者を務め、トゥルクの音楽協会の指揮者としてオーケストラの指揮者も務めた。これらの活動は1912年で打ち切り以後はピアニスト及び作曲家として国内はもとよりヨーロッパ各地を演奏旅行した。1920年にはアメリカを演奏旅行し1921年から26年にかけアメリカ・ロチェスターのイーストマン音楽学校で教鞭を執っている。アメリカ帰国後はシベリウス音楽院(ヘルシンキ音楽院から改称)のピアノの教師として迎えられ1939年には音楽院の初代作曲科教授に任命され1951年の死まで続けられた。 最初の夫人マイッキ・ヤルネフェルトや彼女の死後再婚したミンナ・タルヴィクが共に歌手で、パルムグレン自身が合唱団の指揮者であったこともありパルムグレンは声楽曲も多数作曲したが重要作品は一部を除き自身の楽器ピアノに集中した。 パルムグレンは交響曲は作曲せずオーケストラ曲も稀であるがピアノ協奏曲を5曲作曲しておりそれらは構造上はファンタジー的である。中でも第2番「流れ(河)」はパルムグレンの全作品の中でも最も良く知られた曲で1919年の北欧音楽祭でも演奏され高い評価を得た。パルムグレンは「フィンランドのショパン」とか「フィンランドのシューマン」と呼ばれることがあり、ロマン主義のピアノを暗喩するものであるが、一方で印象主義のフィンランドへの紹介者ともされている。しかし、パルムグレンは特別にフランス音楽に興味を持ってはおらず「ショパンの墓」を作曲したりシューマンの活動について語ることはあったがドビュッシーについて語ることはなかった。 ーーーーーーーー <トイヴォ・クーラ>→NML T.クーラ(1883〜1918)はシベリウスの次世代でとりわけ才能の豊かな作曲家だった。クーラは色々な意味でシベリウスの影響を受けている(シベリウスに作曲を学んでいる)が作風はフランス音楽の影響を強く受けている。新しいフランス音楽(ドビュッシー、デュカス、ショーソン、マニャール)作品は1909年から1910年にかけてパリにいたクーラにとって神の啓示を受けたかのような経験となった。 1911年2月のヘルシンキでの自作演奏会では「声楽とオーケストラのための2つの伝説曲」が演奏されコンサートはその「完全なる革新」によって注目を浴び「クーラの上に立つものはただ一人」と評価された。1911~1913年にオウル、1914~15年にヘルシンキ、1916~18年にヴィープリで指揮者も務めた1914年に歌手のA.シルヴェントイネンと結婚。作曲の中心は声楽曲となった。合唱曲のなかで優れたものはフィンランドの合唱曲の古典の地位まで昇っている。 クーラは歌曲でもその才能を発揮しE.レイノやV.A.コスケンニエミの詩に作曲を行った。また1907年に南オストロボスニアの民謡を収集し後に12の南オストロボスニア民謡を発表した。最高傑作は混声合唱とオーケストラのためのスターバト・マーテル(YouTube)でクーラの死の後マデトヤによって完成された。最も有名な作品は「結婚行進曲」で現在でも結婚式の際に演奏される。クーラの死は悲劇的なものであった。1918年、フィンランド独立後の内戦末の暴力事件でヴィープリでその34歳の生涯を終えた。 ーーーーーーーーーーー <レーヴィ・マデトヤ>→NML シベリウスの次の世代で最も重要な交響曲作曲家となったのはL.マデトヤ(1887〜1947)でヘルシンキで1908年〜1910年にシベリウスに学んだ経験を持つ。初期作品にはシベリウス的な和声や音形が見られるが、シベリウスから最も遠くへ離れた独自の方向へ向った作曲家でもあり、師のシベリウスがドイツ語圏に学んだのに対しフランスに惹かれ優雅さや洗練を備えた傑作を残した。 1906年にヘルシンキに移り住むが、翌年にはイングリア地方に民謡採集に出かけ約150曲の民謡を採集した。そのことが後の作品に多大な影響を及ぼすが、それは直接的な方法ではなく、安易な民族ロマン主義に甘んじることもなかった。この時代のフィンランドはロシア統治のもとロシア化政策が強まった時期で、音楽家にとっても民族ロマン主義的な作品を生み出すことが急務であったが、マデトヤにとって民族的なものを素材にした大作は交響詩「クッレルヴォ」だけである。1910年にヘルシンキでの勉強に区切りを付け自作の作品演奏会で大成功を収めたマデトヤはその一週間後にはパリ遊学に初めて出かけた。ヴァンサン・ダンディに学びたいとの希望は実らなかったもののスタイルの進歩という点では非常に意義深く、実り多いものであった。2回目の留学はウィーンだったが実り多いものではなかった。これらの留学の後、作曲活動に加え指揮、教育(音楽理論の教師、1926年から亡くなるまでヘルシンキ大学の音楽学教師を務めた)、評論と多方面で活躍を開始した。 (※)1917年、マデトヤが提唱したフィンランド作曲家協会が設立され、1937年、マデトヤ50歳の歳には「プロフェッサー」の称号を獲得すると、フィンランド作曲家著作権協会「テオスト」の会長に就任した。マデトヤがフィンランドの音楽界に果たした役割も見逃すことの出来ない重要な一面である。 作曲家としては1913年にカレワラに基づく交響詩「クッレルヴォ」(YouTube)を作曲し民族主義作曲家としてデビューした。1916年にヴィープリで完成した交響曲第1番は歓迎を受けたが本格的に注目を浴びるきっかけは1918年作曲の交響曲第2番でこの曲には内戦の影響が反映されている。この年、友人の作曲家クーラは銃殺され、マデトヤの兄も赤軍によって殺害されている。交響曲第2番は「シベリウスの交響曲以来フィンランドで書かれた最も意義深い作品」と評価されコペンハーゲンでの北欧音楽祭(1919)でも演奏され好評を博した。 マデトヤの創作力は1920年代に頂点に達した。1924年10月25日にフィンランド歌劇場(現在の国立歌劇場の前身)の記念すべき第1000回目演奏会で初演されたオペラ「ポホヤの人々(The Ostrobothnians/Pohjalaisia)」はシベリウスの交響曲第2番に匹敵する熱烈な歓迎を受けた。1925年には詩人でもある妻オネルヴァとフランスに旅立ち交響曲第3番に着手し翌年に完成。交響曲の分野ではシベリウスに次ぐ存在としての地位を確立した。マデトヤの代表作としては3つの交響曲と2つのオペラを挙げれるがシベリウスを手本としチャイコフスキーやフランス交響曲の影響を受け、交響曲第3番においてロマン主義の作曲家として完成したと言っても過言ではない。1925年のフランス旅行からは交響曲第3番以外に重要な作品、バレエ・パントマイム「オコン・フオコ(Okon Fuoko)」が生まれている。この曲では1920年代のモダニストに近いスタイル上の進歩をみせているがデンマーク作家ポール・クヌーセンの台本によるこの作品は音楽は高く評価されたが、ドラマ性を欠くとして台本は酷評された。マデトヤの創作力は2作目のオペラ「ユハ」(1934)の作曲以降、衰え始め1930年代後半にパリ駅で交響曲第4番の最終稿を入れたスーツケースを盗まれたがマデトヤには再度作曲する力は残っていなかった。 ーーーーーーーーーーー <ヘイノ・カスキ>→NML 北カレリア地方で生まれたヘイノ・カスキ(1885〜1957)はヘルシンキ教会オルガニスト学校とヘルシンキ・フィルハーモニック協会のオーケストラ学校に入学し、メラルティンにプライベートで作曲を学んだ。その後、シベリウスの推薦で4年間(1911〜14)給費留学生としてベルリンでパウル・ユオンに伝統的な室内楽や管弦楽法を学んだ。ベルリン留学は第一次世界大戦によって打ち切られフィンランドに帰ったカスキは一番の大作、交響曲ロ短調の作曲に取り掛かり内戦最中の1918年に完成した。翌1919年に交響曲はカヤヌスの指揮で初演され成功を収め、更に1920年から4年間ベルリン、イタリア、フランスに留学のチャンスが与えられた。フィンランドに戻った後は1926年から37年までヘルシンキ音楽院のピアノ教師となり、28年から50年まで小学校で歌を教えた。これらの職はカスキから大作への意欲と集中力を奪うことになりピアノや歌の小品以外に新しい意欲的な作品が生まれることはもはやなかった。1957年9月20日、シベリウスと同じ日に逝去したため最後まで目立たなかった。 (※)ヘイノ・カスキ:交響曲ロ短調→YouTube ーーーーーーーーーーー <イルマリ・ハンニカイネン>→NML イルマリ・ハンニカイネン(1892〜1955)は父、ペッカ・ユハニも作曲家の音楽一家出身で5人兄弟の次男として生まれた。1911年にヘルシンキ大学に入学し、音楽学、美学、ラテン語を学ぶ一方でヘルシンキ音楽院にも籍を置き、メラルティンから作曲を学んだ。1913年からウィーンに留学したが第一次世界大戦のために短期で終わり、1916年からピエタリ(サンクト・ペテルブルク)でシロティーに師事し、シロティーとは後にピアノ・デュエットを組みロンドン、アントワープ、ストックホルム、オスロなどで演奏を共にした。イルマリはフィンランドが生んだ初めての国際的なピアニストで演奏活動ではバルト諸国は勿論、広くヨーロッパに及び特にパリとロンドンでは大成功を収めた。また弟のタウノ(チェロ)、アルヴォ(ヴァイオリン)と共にハンニカイネン・トリオを結成して多いに活躍した。イルマリはピアニスト、シベリウス音楽院(シベリウス音楽院)のピアノ教師(後に教授)、そして作曲家として深く敬愛されながら活動を続けたが1955年7月にパイヤンネ湖岸の別荘付近で溺死体で発見され自殺と考えられている。 (※)イルマリ・ハンニカイネン:ピアノ協奏曲→YouTube #
by suomesta
| 2016-01-01 00:06
| フィンランド音楽史
<フィンランドの独立と内戦>
1917年11月、ロシアは革命の動乱に突入していた。ボリシェビキ革命政権はフィンランド独立への動きを黙認。フィンランド自治政府は独立宣言を提議し同年12月6日にスヴィンヒューヴド内閣が可決した。ロシアの大公国時代より約100年、スウェーデン王エリク9世の十字軍遠征以来750年以上の歴史を経てフィンランドは独立を果たした。 独立したフィンランドは直後に西欧民主主義か共産主義体制かをめぐっての内戦(1917~18)に突入した。ロシア革命政権はフィンランドを共産主義化すべく扇動。フィンランド国内の社民党内の過激左派は赤軍を編成し「社会主義労働共和国」の樹立を宣言。民族派のマンネルへイム将軍率いる白軍と内戦ではタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリで激戦が行われた。この間シベリウスの自宅は1918年2月12~13日に赤軍に捜索されマデトヤは兄が赤軍によって殺害されクーラは白軍のパーティの際、銃弾に倒れた(内戦は1918は5月白軍の勝利に終わった)。フィンランド独立(1917)とその後の内戦は国内の大変革をもたらし音楽界も例外ではなく伝統的調性音楽から離れた作曲家の登場として表れた。モダニズムをフィンランドに紹介したのはロシアからの移民エルネスト・パングー(→NML・1887~1942)で1918年にヘルシンキで自作演奏会を開いた時のことだった。フィンランド出身ではヴァイノ・ライティオ(→NML・1891~1945)とアーッレ・メリカント(1893~1958)がモダニストの中核をなした。これらの作曲家の主要作品は1920年代に書かれており「1920年代のモダニズム」と呼ばれている。 <アーッレ・メリカント>→NML
1920年代のモダニズムの中心はアーッレ・メリカント(1893~1958)で1893年に誕生した。当時フィンランドの人気作曲家であったオスカルを父に持つアーッレにとって作曲家となる事は天によって与えられた運命であった。アーッレは成長するに従い父オスカルの音楽語法から遠ざかりその作品はしぶしぶ演奏されるかあるいは全く演奏されなかった(父オスカルは息子の歩む道に批判的だったがいつも暖かく息子への援助を惜しまなかった)。アーッレは1912年から14年にかけてライプツィヒでマックス・レーガーに学び、1915年から翌年にかけてモスクワでワシレンコに師事した。モスクワではスクリャービン作品を通じて色彩豊かな音の世界に目覚め、そこから最も急進的なスタイルが生み出された。 1910年代の模索の時代を経たアーッレの作品は1922年作曲のオペラ「ユハ」として結実したがフィンランドオペラはこの曲の演奏を拒否しアーッレの生前には演奏されなかった。アーッレが急進的なスタイルを発展させた時期はフィンランドでは民族ロマン主義が全盛の時代だった。アーッレの作品にもロマン主義的な要素は見出せるが、そこに表現主義的な力強さと、印象主義的な豊富な色彩感が混じり混んでいる。1923年に作曲された「オーケストラのための幻想曲」の初演は先送りされ...約30年後の1952年に初演された。1924年作曲の「パン(牧神)」は賛美と非難を同時に浴び...1925年作曲の傑作ヴァイオリン協奏曲第2番や1928年の重要作「交響的習作」は...共にアーッレの生前は演奏されなかった。この時期のアーッレの成功作は通称「ショット協奏曲」でドイツの出版社ショットが主催する作曲コンクールに優勝した(1925)。 1930年代はアーッレが先進的なスタイルに別れを告げた時期である。作品は簡素化し伝統的なスタイルとなっている。これは20年代の作品が非難された影響か、自然な成長の結果かは未解決のフィンランド音楽史上の大問題である。外的には晩年のアーッレは成功に恵まれていた。1936年にはシベリウス音楽院で教鞭を執り1951年からは作曲科の教授に任命された。またコンクールでは非常な良績を上げており、ヴァイオリン協奏曲第4番(1954)でフィンランド文化基金コンクールに優勝し、ピアノ協奏曲第3番(→YouTube)で同コンクールで2位となり、1956年には同コンクールで1位(愚か者)と2位(創世記→YouTube)を独占した。 ーーーーーーーー <歌曲王ユルヨ・キルピネン>→NML キルピネン(1892~1959)は当時のフィンランド人作曲家としては異色の存在で、フィンランド語系の父を持ち、スウェーデン語系の母を持ち、若い頃からドイツ語を学び作曲分野をほぼ歌曲のみに専念した。フィンランド語歌曲を339曲、スウェーデン語のものを164曲、ドイツ語のものを229曲作曲したキルピネンは「フィンランドの歌曲王」と呼ばれる。その作品に純粋なオーケストラ曲はなく、オーケストラ伴奏に編曲された歌曲が36存在するのみで、それもほとんどが他の作曲家の手によるもので自身の手によるものは3曲しかない。 キルピネンはヘルシンキ音楽院で学んだ後、ウィーンとベルリンで学んでいる。その後、北欧諸国をはじめヨーロッパ各地を演奏旅行した。1920年代には数多くのコンサートが国内外で持たれ、もっとも充実した時期だった。またラップランドやスウェーデンで生活した経験もあり作品にもよい意味で反映されている。キルピネンが作曲したものはフィンランドのE.レイノ、V.A.コスケンニエミの詩からスウェーデン語ではE.ヨセフソン、B.ベルイマン、ラゲルクヴィスト、ドイツ語ではリルケ、ヘルマン・ヘッセ、セルゲル、モルゲンシュテルンに及ぶ。また歌曲のスタイルは前期フィンランド語歌曲シリーズ、スウェーデン語歌曲シリーズ、ドイツ語歌曲シリーズ、後期フィンランド語歌曲シリーズと4つに分類が可能でその作風も異なっている。 前期フィンランド語時代(1912~1921)ではE.レイノ、V.A.コスミケンニエミなどの詩に作曲した。この時代のキルピネンの作曲スタイルはヴォルフによって確立されたドイツリートの伝統に融合しており、独唱曲というよりも室内楽的性格が強い。スウェーデン語時代(1922~1927)にはE.ヨセフソン、B.ベルイマン、ラゲルクヴィスト等の詩人の詩に作曲を行った。作曲スタイルは簡素化し、ユーモラスな面に加え哲学的な瞑想が表れている。ドイツ語時代は1928年からでリルケ、ヘッセ、セルゲル等の詩人の詩に作曲を行った。その他モルゲンシュテルンには75曲作曲している。1930年代のドイツでキルピネンの作品は特に好まれたが、ドイツ語の詩が多く用いられていたことにもよるが、ドイツリートで用いられる「死」や「孤独」がテーマとして用いられていることにもよる。1946年に再びフィンランド語に興味を示したキルピネンはカンテレタル64曲に作曲を行った(1948~1950)。この作品では古風な作曲スタイルに戻っている。 キルピネンの特徴は同一の詩人のテキストに作曲した何十ものシリーズがあり、37曲あるコスケンニエミの詩による歌曲は全て1921年、75曲あるモルゲンシュテルンの詩によるものは全て1928年に作曲されている。このため「キルピネンは詩に作曲したのでなく、詩人に作曲した」とも言われる。キルピネンはドイツリートを復活させた作曲家として特にドイツで、加えてイギリスでも名声を獲得した。 (※)キルピネン・歌曲集→NML ーーーーーー <ウーノ・クラミ>→NML U.クラミ(1900~1961)はシベリウスに続く世代の作曲家の中で中心的な存在となった。早い時期に両親を亡くし、子供の頃に音楽教育を受けることはなかったが15歳で義務教育を終えるとすぐにヘルシンキ音楽院でメラルティンに学んだ。その後、パリを留学先に選んだが管弦楽は音楽院でも海外留学でも正式には学んでおらずほとんど独学であった。生来のオーケストラ作曲家であったクラミはオーケストラの可能性をこれと言った努力無しに掌中に収めていた。 1924年にヘルシンキ音楽院を卒業したクラミはパリに留学。ここでモーリス・ラヴェルやフローラン・シュミットと知り合った。パリ滞在中に接した音楽のうち、とりわけラヴェル、ストラヴィンスキー、スペインの作曲家たちの影響は、後の作品に色濃く反映された。 1925年に帰国したクラミはピアノ協奏曲「モンマルトルの一夜」とカレリア狂詩曲でフィンランド楽壇にデビューした。1928年の演奏会で取り上げられたカレリア狂詩曲はクラミの初期作品中最も人気のある曲となったが、伝統的な民族ロマン主義から全く外れており決定的にシベリウスの影響から離れたものであった。クラミがデビューした1928年頃はフィンランド音楽史の中で最も面白い10年が終わろうとしていた時期である。当時、シベリウスは後期作品を書き終え(交響曲第6番、第7番、交響詩「タピオラ」)、レーヴィ・マデトヤは全盛時代を迎えていた(オペラ「ポホヤの人々」、交響曲第3番)。またパングー、ライティオ、アーッレ・メリカントら若きラディカルな作曲家が新しい発想で作曲し賛否両論を呼んだ時代でもあった。クラミは1920年代のモダニストの仕事を引き継いだが彼らほど深入りせず、調性音楽の域に留まっていたため作品は好意的に受け止められた。 第1回の演奏会後、ウィーンに留学(1928〜1929)したが、ここでも影響を与えたのはラヴェルであった。1931年には第2回目の作品演奏会が開かれ国内での評価は確立した。新時代の旗手の地位を確立すると、原始主義やジャスをはじめ、様々な音楽のエッセンスを柔軟かつ貪欲に吸収しつつ精力的に作品を書き続けた。 (※)第2回目の作品演奏会では管弦楽のための<3Bf>が明らかにラヴェルのボレロに似ていたため最大の論議を呼び、この<3Bf>は管弦楽組曲「海の情景」の最終曲として組み入れられた。 古代フィンランド的な賛美歌の歌詞に作曲されたオラトリオ「詩篇」は1937年の初演により損をしており1960年代初めからの演奏によりこの曲の意義が認識され出した。この曲では以前のようなラヴェルやストラヴィンスキーの影響を捨て去っている。管弦楽作品中の代表作「カレワラ組曲」は10年以上の歳月をかけて1943年に完成された。この曲では恐れていたシベリウスの影響からは逃れたが、ストラヴィンスキーの影響が見られる作品となった。 従来のフィンランド音楽と適度に異なるクラミの作品はモダニスト世代の中でも顕著な地位を獲得した。1938年からはフィンランド政府の芸術家年金を支給され、1959年にはフィンランド音楽アカデミーの会員に選ばれた。アカデミー会員として取り組んだ未完のバレエ「渦巻」は第2幕から編まれた二つの組曲でのみ知られていたが、1985年に最初の2幕のピアノ譜と全3幕の台本が発見され、カレヴィ・アホがオーケストレイションした第1幕が1988年に初演された。 #
by suomesta
| 2016-01-01 00:05
| フィンランド音楽史
<20世紀生まれの主な作曲家>
E.ベルイマン(1911~2006)/A.ソンニネン(1914〜1984)/E.エングルンド(1916~1999)/T.ピュルッカネン(1918〜1980)/J.コッコネン(1921~1996)/E.ラウタヴァーラ(1928~)/U.メリライネン(1930~2004)/A.サッリネン(1935~)/P.ヘイニネン(1938~)/P.H.ノルドグレン(1944~2008)/K.アホ(1949~)/K.サーリアホ(1952~)/M.リンドベルイ(1958~) <第二次世界大戦直後> 第二次世界大戦はフィンランドの音楽発展において断絶を意味する。音楽家や作曲家の多くは戦場の慰問団にいたためにコンサート活動は中断されていた。戦後初の注目に値する作曲家としてはタウノ・ピュルッカネン(→NML・1918~1980)とアハティ・ソンニネン(→NML・1914~1984)が挙げられ「北のプッチーニ」と呼ばれたピュルッカネンは早熟な作曲家で代表作「マレと息子」を初めオペラの作曲に専念した。ソンニネンの代表作はバレエ「ペッシとイッルシア」でフィンランド国立オペラで短期間に100回以上上演された。 <新古典主義の時代(1940年代後半〜1950年代)> 戦後、最もセンセーショナルなデビューを果たしたのはエングルンドで1940年代後半に初演された交響曲第1番「戦争」(1946)と交響曲第2番「クロウタドリ」(1947)の初演はフィンランドの民族ロマン主義の終焉を意味する。この後、1950年代中頃まで新古典主義が音楽界の主流となりエングルンドが代表的な作曲家となり、コッコネン、ラウタヴァーラ、メリライネンも新古典主義者としてデビューした。 <十二音技法・前衛主義時代(1950年代中頃〜1960年代中頃)> 1954年以降、音楽界に大きな影響を与えたのはエリク・ベルイマンによってフィンランドに紹介された十二音技法で新古典主義者としてスタートしたコッコネンやラウタヴァーラやメリライネンも1950年代後半から1960年代前半にかけて十二音技法を試しており、1950年代後半に作曲活動を開始したサッリネンも影響を免れなかった。ヘイニネンはほぼ十二音音楽からスタートし、全面的な十二音技法に向かうことはなかったが他の作曲家が1960年代後半以降多元主義や新調性(自由調性)主義に向かった時も十二音技法の基本は捨てなかった。最も若い世代の前衛主義者は中央ヨーロッパの前衛主義の保護者として登場した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <エイナル・エングルンド>→NML
エングルンド(1916〜1999)は戦争によって若い時代を犠牲にした世代の作曲家でシベリウス音楽院で1941年までベングト・カールソンに作曲を師事した後、継続戦争に従軍した。 (※)1941年の7月(継続戦争が始まった月)にエングルンドはアイノラ(シベリウスの家)に飛び込みで訪問している。たまたまラジオでエングルンドのピアノ五重奏曲を聴いたことがあったシベリウスから暖かく迎えられ、この時の縁で後にシベリウスの推薦でアメリカに留学出来た(1948〜49)。 1940年代後半に初演された交響曲第1番「戦争」(YouTube)(1946)と交響曲第2番「クロウタドリ」(YouTube)(1947)の初演はフィンランドの音楽界にとってショッキングな出来事でヨーナス・コッコネンは「我々はすべてエングルンド派になった。」と述べている。これら新古典主義の交響曲ではシベリウスの影響が間接的には現れているが、その伝統から解放された。1954年にはチェロ協奏曲、1955年に現在最も良く演奏されるピアノ協奏曲第1番(YouTube)を作曲しこの時代の代表的作曲家となったが1959年にバレエ「オデュッセウス」を完成した後、中央ヨーロッパから十二音技法が入ってくる中で自分の作品が反響を呼ばなくなると考えた約10年間作曲の筆を断った。1957年から81年までシベリウス音楽院に作曲の教師として勤務し1960年代は国営放送軽音楽オーケストラと共に軽音楽に集中した。 クラシック音楽界に復帰したエングルンドは交響曲3番(YouTube)を1971年に完成した。「新しい」エングルンドは「昔の」エングルンドと本質的に異なるものではなく、依然として動機・主題の扱いに基づいており、その調性的性格は明らかである。その後1980年代末にかけて7番までの交響曲と様々な協奏曲を作曲した。エングルンド作品はストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチの影響が明らかで、後にバルトークにも影響された。交響曲第4番「ノスタルジック」(YouTube)は「偉大なる作曲家の思い出」...ショスタコーヴィチに捧げられた。 ーーーーーー <エリク・ベルイマン>→NML 十二音技法をフィンランドで最初に用いたのがE.ベルイマン(1911〜2006)でロマン主義の作曲家として出発した。初期作品は後期ロマン主義に縛られており、この時期に作曲された意義深い作品としてはオマル・カイヤームの詩に作曲された「ルバイヤート」(1953)が挙げられ、ベルイマンがヨーロッパ以外の、特に古代の文化に興味を持っていることが明らかになった。この隔たった文化に対する関心は形を変えながら引き継がれていった。 ベルイマンの作曲家としての成長に決定的な影響を与えたのは十二音技法の可能性を知ったことで「ピアノとクラリネットのための3つの幻想曲」(1954)で十二音技法を使用し、これがフィンランド音楽史上初めて十二音技法を用いた作品となった。この後、スイスでウラディーミル・フォーゲルに音列技法を学び(ベルイマンの推薦でラウタヴァーラやメリライネンもフォーゲルに学んでいる)以後数年間ベルイマンは好んで十二音技法を採用した。1957年夏にはダルムシュタットを訪れ音列技法の講義に参加し、フィンランドで初めて音列技法を使用した「オーバード」を作曲した(1958)。十二音技法と音列技法の研究の総決算として書かれたのが1962年作曲のバリトン、混声合唱、室内オーケストラのための「セラ」でその後ベルイマンは新たなスタイルを確立することになった。 新たなスタイルでは音色の要素と全体的構造への配慮が作品のなかで目立つようになりベルイマンの様式の土台となった。1973年作曲の管弦楽作品「色彩と即興」はベルイマンの成長の最後の段階を物語っている。作品の中で最も大きな割合を占めるのが声楽作品で「人の声」という無尽蔵の資源の探求者であったベルイマンの集大成はオペラ「歌う樹(1988)」である。 (※)エリク・ベルイマンの個展(2CD)→NML ーーーーーー <ヨーナス・コッコネン>→NML J.コッコネン(1921~1996)は第二次世界大戦後のフィンランド音楽界で極めて重要な位置を占める。単に作曲家であるだけではなくフィンランド・アカデミーの会員であり、作曲科の教授、活動的なジャーナリストでもあった。文化関係の討論会にも参加し選ばれて記録的な数の公職にも就いていた。コッコネンの作曲家としての成長は新古典主義時代、十二音音楽時代、新調性(自由調性)主義時代の三つに分けられる。1940年代に新古典主義者として出発したコッコネンは1957年に「弦楽合奏のための音楽」を作曲。新古典主義時代の総決算となった。しかしこの曲では既に半音階的な手法も見られる。 1950年代後半からは十二音技法を採用し弦楽四重奏曲第1番(1959)が初めて十二音技法を用いた作品となった。コッコネンの中期の作品は構成において、初期や後期の作品より知能的、抽象的で、形式の上で手本となったのはシベリウスの交響曲第4番(特にその第3楽章)である。十二音技法時代の最も重要な曲は交響曲第1番から第3番まで(1958〜1960、1961、1967)であるが交響曲第3番は転換期の作品でもありここでは十二音技法は完全には応用されてはいない。 1960年代後半以降から新調性(自由調性)主義時代が始まった。簡潔な交響曲第3番は1968年に北欧音楽賞を受賞したがこの作品以降コッコネンの作品は円熟味を増し、響きが豊かになり、三和音等の伝統的手法を使用するようになった。1969年には見事な構造を持つチェロ協奏曲を作曲し1960年代の代表作となった。1975年にはフィンランド音楽界で前例のない大成功を収めたオペラ「最後の誘惑」を作曲。この曲はマデトヤのオペラ「ポホヤの人々」と並ぶ国民オペラとなり、フィンランドにオペラブームを興した。最後の大作は1981年作曲の「レクイエム」でこのジャンルにおける傑作の一つである。 (※)ヨーナス・コッコネン・交響曲全集(2CD)→NML ーーーーーー <エイノユハニ・ラウタヴァーラ>→NML 現在、最も有名なフィンランドの作曲家となったE.ラウタヴァーラ(1928~)の作風は極端から極端に飛び跳ねるもので直線的な成長を遂げたわけではなく一時は十二音技法も採用した。1952年までシベリウス音楽院でアーッレ・メリカントに学んだラウタヴァーラの1950年代初期作品は当時、フィンランド音楽界で主流だった新古典主義に位置付けられる。この時期の総決算は「我らの時代のレクイエム」(1953)でアメリカのソール・ジョンソン作曲コンクールに優勝(1954)した。この曲は現在でもフィンランドで演奏される機会の多いブラス・アンサンブル作品の一つである。 1955年にはシベリウスの推薦を受け2年近くアメリカに滞在してタングルウッド夏期講座やジュリアード音楽院で学んだ。更に1957年にはベルイマンの推薦でスイスのウラディーミル・フォーゲルに十二音技法を学んでいる。この頃から十二音技法の実験が始まるが、その扱いは徹底的なものではなく試行の多様性がみられる。弦楽四重奏曲第2番(1958)はロマン主義的で交響曲第3番(1961)もその十二音階性は調性的である。十二音技法時代最大の野心作は1957年から1963年にかけて作曲されたオペラ「鉱山」で1956年のハンガリー動乱からインスピレーションを得て作曲された。 十二音技法の実験時代を経た1960年代後半には熱狂的な新ロマン主義が優勢な特徴となった。このスタイルで独立カンタータ(1967)、チェロ協奏曲(1968)を作曲しているが、この時期の代表作にはピアノ協奏曲第1番(1969)が挙げられる。1970年代以降は様々な様式の統合を目指している。この時期から作品にはモダンな要素と伝統的な要素が結合しており、しばしば作品は不合理的な面も持ち始めるが、内容的に多くの層を持った作品に広がりを見せている。1972年作曲の「カントゥス・アルクティクス(極北の歌)」はラウタヴァーラの作品中最も有名なものでこの曲では新ロマン主義的な管弦楽のテクスチュアに対して、鳥のテープが爽やかな対位法をなす。 ラウタヴァーラの作曲ジャンルは多岐に渡るが中心をなすのはオペラと交響曲・協奏曲で1975年にカレワラのマルヤッタ伝説に基づく神秘的演劇「マルヤッタ」を完成。1981年にもカレワラに基づく「サンポの奪回」を作曲した。1985年のオペラ「トマス」はフィンランドのカレワラ調文化とキリスト教文化の衝突が題材で、1996年の「アレクシス・キヴィ」ではフィンランドの生んだ悲劇の芸術家の運命が描かれている。交響曲・協奏曲の分野でも重要な作品を残しているが1994年作曲の交響曲第7番「光の天使」は国際的なベストセラーとなり世界的にその名を知られるようになった。この他にも数多くのオーケストラ、室内楽作品、合唱作品を残しているが、代表的な合唱作品としてはロルカ組曲が挙げられる。 1976年から88年にかけてラウタヴァーラはシベリウス音楽院の作曲家教授を務めており、生徒としてはカレヴィ・アホ、オッリ・コルテカンガス、マグヌス・リンドベルイ、エサ=ペッカ・サロネンなどがいる。 ーーーーーーーーー <ウスコ・メリライネン>→NML U.メリライネン(1930~2004)の作曲家としての業績と作品は戦後フィンランドのモダニズムの歴史と密接に結びついている。シベリウス音楽院でアーッレ・メリカントに学び作曲家として活動を開始した頃は1950年代、新古典主義が優勢な時代でメリライネンも新古典主義者として出発した。この時期に影響を与えたのはストラヴィンスキー、特にその「春の祭典」であり、その影響は交響曲第1番(1955)やピアノ協奏曲第1番(YouTube)(1956)に見てとれる。 1956年にダルムシュタットの現代音楽夏期講習に参加し、スイスでウラディーミル・フォーゲルに2年間学んだ後、メリライネンは1960年代に十二音技法を使用した。その時期は作曲家としての活動の中では短い過渡期の位置を占めるに過ぎないが作曲家として飛躍する上で大きな役割を果たし、十二音技法や音列技法を放棄した後も、モダニズムの理想を保持した「ポスト」十二音技法に進んだ。弦楽四重奏曲第1番(1965)は重要な過渡期に作曲された最後の十二音技法による作品で、この曲では新ウィーン楽派に大接近している。 メリライネンの新しいスタイルはリズム的により自由な音楽的表現に向かって進み、そこでは偶然性の応用が重要な意義を持っていた。ピアノソナタ第2番(1966)ではキャラクター・テクニックを開発したが、重要なのは音の親族関係より、音楽的キャラクターの同一性及び差異である。この曲では基本キャラクターは「ポイント」「ライン」「フィールド」の3つから構成される。メリライネンがキャラクター技法を通じて発展させた様式は以後の作品でも基盤となった。その特徴は、ダイナミックで力強い急速な動きから、弾力性のある、ルバート風の自由パルスにまで及ぶ、豊かで贅沢なリズムである。後期作品では音色への配慮が見られるようになり、小さな動きの中に控え目な詩的内容を込める傾向が見られるが、必要とあれば力強い爆発を表現することも忘れてはいない。ピアノ協奏曲第2番(1969)や交響曲第3番(1971)は作曲家自身の言葉によれば「私たちの暴力的な世界に対する発言」である。 メリライネンの重要作品は5つの交響曲、チェロ協奏曲(1975)、フルート協奏曲「幻想とささやき」(1985)、ギター協奏曲(1991)等で、そのほか室内楽に優れた作品がある(5つのピアノソナタ等)。 #
by suomesta
| 2016-01-01 00:04
| フィンランド音楽史
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